十三機兵防衛圏は令和に再臨した九十九十九である
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。
───ヨハネの黙示録第21章より
『十三機兵防衛圏』、大変に面白かった。極めて濃密なシナリオと独特にして情緒のある2Dアドベンチャー、簡素化されながらも面白みややり込み度合いの深い崩壊編のバトルなど、十年に一本のゲームであった、と言い切っても差し支えないだろう。それほどまでに偉大なゲームであった。
このゲームのシナリオの根幹をなすのは、無数のSFガジェットであり、そして少年少女の成長である。殻を破った雛たちは、鳥として新天地で羽ばたいていく、そういう話であり、そこに壮大なハードSFの設定を絡めることによって、その旅立ちを神話的なものへと変えているのだ。……そして、同じような試みは、平成にも行われていた。『九十九十九(つくもじゅうく)』(著:舞城王太郎)である。
※本稿では、『九十九十九』の内容のネタバレを含んでいます。しかしながら、それらのネタバレは読後感に影響を及ぼさないという筆者の断定の元に伏せられていません。どうかご了承ください。
1.九十九十九ってなんだよ
九十九十九。この胡乱な名前をよく知っているのは、清涼院流水、あるいは舞城王太郎の読者か、ないしはジョジョラー(漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を愛読する人々)であろう。
ジョジョと舞城王太郎のコラボとして出版された『JORGE JOESTAR』において、九十九十九はジョージ・ジョースターの親友としてなぜか登場し、死んだりワープしたりしていた。これを指して原作破壊であるとする意見はネット上に多々見られるが、はっきりいってそれは誤りである。『JORGE JOESTAR』の九十九十九は極限までナーフされた存在だからだ。(なおJORGE JOESTARでは、DIOが上方修正されたアオリでジョルノがナーフされているなど、全体的に原典に忠実というよりかは好き勝手二次創作した感がある……というかそうである。FFSに近いと言えよう。ファニアー・ヴァレンタインとかファニエスト・ヴァレンタインとか出てくるし)
さて、九十九十九の初出典は、レンガ、流水大説として名高い『コズミック』(著:清涼院流水)である。彼は見たものを失神させるほどの美貌を持ち、『神通理気』という超能力によって、状況証拠のみから、現場を見ずして事件を解決する”探偵神”……という胡乱な設定を引っ提げて登場した舞台装置の中の舞台装置であったが、作者にも扱い損ねたのか、『カーニバル』において九十九邪鬼に刺殺されてしまう。
そして、作家間でのアトリビュート企画において、九十九十九は復活する。その名を冠された小説にて描かれたのは、ありとあらゆる事件を粉砕しながら雹を降らせたり日本刀で斬られた首をくっつけたりする”神”であり、親に捨てられ、殻の中で成熟しようとする”異形の子供”としての九十九十九であった。
2.『九十九十九』と『十三機兵防衛圏』の一致
十三機兵防衛圏において描かれた子供の神話的成長は、『九十九十九』においては、より直接的に描かれる。作中において、『創世記』と『ヨハネの黙示録』の見立てとしての事件が次々と生じ、九十九十九は”探偵神”として、それらの事件を解決したり、粉砕したり、時には見立てを作り上げたりもする。ダイモスよろしく天から隕石が衝突したり、その影響で時間遡行が生じ第五章が第四章より先に来たり、ループして第六章が2つになったり、清涼院流水が磔刑になったり、九十九十九の首が空から降り注いだり……ということが生じ、それぞれの章で女の子と付き合ったり三つ子が生まれたりということが起き、そして世界の真実が明らかになる。
(『ゲーム的リアリズムの誕生』(著:東浩紀)電子書籍版より引用。諸兄らの中にはポストモダンと聞くや攻性防禦の姿勢を取り呪い除けのマントラを唱え始める方も多いであろうが、本書の『九十九十九』評は極めて信頼に値するものであり、『九十九十九』を読み解くための副読書としてこれを購入することも視野に入れるべきである、と私は考えて……あ、はい、そこまでして読み込みたくない……はい、はい……)
それぞれの章は並行世界であると同時に、全ては九十九十九の妄想であった。探偵行為は彼を成育させ、”美しすぎるがゆえに捨てられた”という虚構ではなく、”三面六臂の異形の姿であるがゆえに捨てられた”という現実を受容するための儀式でしかなかったのだ。……かくして、別世界から現れた、”虚構の世界から解脱しようとする(=現実に帰ろうとする)第一章から第七章までを体験した九十九十九(図のP1)”と”虚構の彼女を愛し続けようとする(=虚構世界にい続けようとする)第七章1の九十九十九(図のP2)”と”どちらをも選びきれない第六章(2)の九十九十九(図のP3)”による三つ巴が、最終章である第六章で描かれる。
そして、第六章(最終章)の九十九十九は、その対立から離れ、第三の選択肢を選ぶ。現実の世界に戻るのでも、虚構の世界に浸り続けるのでもなく、その二つが混交した世界を肯定しようとするのだ。彼が家族と共に食事をするシーンで、『九十九十九』は幕を閉じる。いずれ現実に帰るだろう彼が、虚構の家族とのまじわりを楽しすぎるほどに楽しみながら。そして九十九十九というアキレスは亀に追いつかない。
さて、『九十九十九』ではずさんに(批評的にといえなくもない)振り回された、物語推進要素であるミステリは、十三機兵防衛圏においては無数のSFガジェットとして立ち現われ、物語をまっとうに引っ張っていく。クローン、ドロイド、成り代わり、記憶移植……ネタバレを避けたいために詳細には記述しないが、十三機兵防衛圏の持つSF的想像力と九十九十九の持つメタミステリ的想像力は類似したものであり、それ故に、舞城王太郎は『ディスコ探偵水曜日』にてSFめいた世界論を展開することができたのだろう。
3.生まれようと欲するものは、ひとつの世界を破壊しなければならない
デミアンの一節である。
子供から大人になることは痛みを伴うものであり、必ずや別れが待ち受けるものだ。その別れの一つとして、『プー横丁に立った家(著:A.A.ミルン)』や『GOGOモンスター(著:松本大洋)』のような、幻想世界、虚構世界、仮想世界との決別というものがある。
『九十九十九』はこれに対して異を唱え、成功し、そして失敗した。選択された第三の選択肢は、希望に満ちて、しかし結局のところ宙ぶらりんなものであり、そのために文学的には成功したとしても、物語的に破綻していた。その破綻した物語は、『ディスコ探偵水曜日』において完成する。しかし、ディスコ・ウェンズディ(同作の主人公)は九十九十九の意思を継ぐことはない。そして、『ディスコ探偵水曜日』の世界に出現した九十九十九もまた、物語の大円団に交わることなく、どこかに行ってしまう。『JORGE JORSTAR』においても同様だ。彼はいびつな物語こそを肯定すべきであり、完成された物語には必要とされないからである。
だが、『十三機兵防衛圏』は『九十九十九』を完成させた。九十九十九の凸凹な物語を、SFの力を借りることによって丁寧に舗装し、うつくしいものとしたのだ。この作品内において、井田鉄也や森村千尋といった大人たち、(ネタバレにつき隠蔽)あるいは(ネタバレにつき隠蔽)年のひとびとの姿を取って現れた九十九十九を、十三人の子供たちはありとあらゆるSFガジェットを利用することによってしっかりと救い取り、さわやかな終わりを見せた。その物語が黙示録めいた終末から始まり、一番最後に創世記のメタファーを取って終わるのは、まことに奇妙なシンクロニシティと呼ぶほかない。
この大偉業を成し遂げた最高のハードSF・ジュブナイルである『十三機兵防衛圏』と、失敗作であるがゆえに完成した異形のメタミステリ・ジュブナイルである『九十九十九』とを、ぜひ手に取ってほしい。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」
───創世記 第1章より
(十三機兵防衛圏のエンディングを再度見る音)
うう、ふぐっ、ううぅぅぅ……よかったねぇ、森村先生も十郎も思いが伝えられてよかったねえ、井田先生も歌聞けてよかった、うう、ふぐっ、ミワちゃんは最高のひとだよォ……危機的状況にあっても自分より小さい子を庇えるところ最高に⎳ℴ ⎷ ℯだよ……新世界でもおいしいものいっぱい食べてね……ぶわああああぁぁぁぁぁん…………
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