見出し画像

天上の詩(うた)

暗闇の中でじっと耳をすますと、深淵から物語が生まれてくるのがよく分かる。
聴く人知らずの夜想曲は消えかかってはまたつながり、つながっては途絶えてを繰り返して、闇と共鳴しながら協奏を持ちかけているようだ。音が吸い込まれ噴き出すところ、意味になるかどうかを考えあぐねる中間地点、そこにきっとあの人はいるだろう。

四肢を軽やかに動かしながら、乱反射する途切れ途切れの音を組み立てて、闇が闇の中を進む。


織られた歳月は神話となり
様々な告白の縁を求む
祭壇の供物の赤い果実
祈りを乞う人々のこうべ
御手をと望むがゆえに
許しを与え祝福を落としても
私の指に触れることはない
勝利のための銀の盃
乾いた音にも目覚めは来ない
虚空に漂う誓いだけが
冷たい玉座に降り積もる

「しばらく来ていなかったのに、珍しい。一体、どういう風の吹き回し?」

気配を感じて音遊びをやめたかと思うと、声の主は艶やかな黒毛に黄金色の眼を持つ猫に問う。金色の中心に深く根差す細い二つの楕円は、まるで異世界に通じる狭い入口と出口のように美しい。

静かに近づいてきた猫はゆっくりと深い声で答える。

「前回の漆黒紀ぶりでしょうか。ここに時間はありませんが、ずいぶん久しぶりに思えますね。近頃はそのお姿がお気に入りですか?」

人の手のひらに収まるほどであろう、浮遊する光が、わずかに白い光彩を瞬かせる。

「そう。最近は、これが一番心地よい状態だった。」

猫は黙って小さな光を見つめる。

「あなたに、転生をご承諾いただきたく、今日は参りました。」

光は、それを聴いて蛍ほどの小さな白い点へと身を縮める。

「本当に、聡くそして狡猾なのだねお前は。ここに時間はないと言いながら、かつて私が体験した“今日”という言葉をわざわざ使う。私はお前のそういうところが、本当に信用ならないよ。」

「信用できるもできないも、ここでは大した問題ではありません。私は私に負わされた役目を果たしているだけですので。」

猫はいけしゃあしゃあと言うと、右前足で顔を洗う仕草をする。

「結局、この場所でなおも光の姿を好んだあなたは、再び光の中へ戻らねばならない。あなたが望んだ光、それは、ここでは叶えられない夢のようなものです。夢は、それが夢であると認識できる場所で初めて夢となる。あなたがかつて憧れ、手にしたかったものは、ここにはありません。そのことに、本当は気づいていたでしょう?」

白い点は、突然激しい炎となって迸る。

「そうやって、耳障りのよいことを言って。どうせ転生先は人間と決まっているだろうに。」

烈火はじりじりと猫の眼前にまでその手を飛ばすが、猫は微動だにせず髭先を焦がす。

「はい。おっしゃる通りです。あなたには、次も人間をしていただきたいと、そのように割り当てられています。」

炎は猫から手を収めた瞬間、ここにあるはずもない天井めがけて高く聳え立った。それは辺りを照らす赤々とした激しい明かりとして、目の前に座る猫に初めて影をつくる。猫は炎を見上げ瞳の中にその揺らめきを捉える。

「だってお前、私はお前にかつての記憶を尋ねたことなどただの一度もないが、人間がひどいものだということくらい、お前も嫌というほど知っているだろう?」

猫は何も答えない。

「奴らは壊しても奪っても傷つけても満たされず、あらゆるものを踏みにじっては、都合の良い時だけその小さな自負心を自分のために守ろうとする。弱く善良なものを犠牲の盾にしておいて、それが打ち砕かれても学ばず、また同じことを何度でも繰り返すのだ。血の海に自らの衣を染め、腐臭は芳香でごまかそうとする。鉄の錆びる理由にわざと目を瞑るのだ。いったい、こんなにも愚かで救いようのない生き物がほかにいるとでも思うか。」

温度を上げる炎は、その勢いを衰えさせることなく続ける。

「私にはまだ忌避権が残っているはず。ここでようやく自由になれた。狭い肉体と運命からやっと解放されて、永い永い癒しのときを得た。季節も星々も神秘の生命も変幻自在、ここではなににでもなれるというのに。なぜ、またあんなにも壮絶な苦しみに耐えねばならないのか。答えられるものなら答えてみろ。」

変幻自在な魂を露わにするように、猫の目の前には炎の破裂から鯨が現れたかと思うとしぶきをあげる波とともに鳥になり、鳥は翼を広げて大振りの葉となる。葉は風になって猫の毛並みを撫でるとその揺蕩いに合わせて魚になり、鱗をきらきらと輝かせて幾粒もの雹となる。

「……かつて、あなたと出会うはずだった半身が、同時代に生まれる予定です。」

猫はゆっくりと落ちていく雹を眼で追いながら語りかけた。

「……それはいつ? いったいどこで?」

猫は耳をぴくりと動かす。雹が集まった先に成った氷の内側に一輪の花が生まれ、それが開いたかと思うと月桂樹の冠を戴く春の女神が、一瞬だけ姿を現していた。

「ああ、守秘義務というやつか。相も変わらぬ石頭ぶりだな。懐かしき忠実な役人がこんなところにもいようとは、想像だにしなかったよ。」

女神はすぐに消失し、氷を溶かして再び炎の姿に変わる。

「……4番目の子として生を受けます。健やかで華やかなきょうだいとなりましょう。それは希望になりませんか?」

「……お前は本当に意地が悪いね。今度は生家もひとりでないと言いたいのか。」

滾る炎は橙からやがて冷徹な青色に変わり、徐々にその形を雫のように整える。

「ああ、雨ですか。あなたがここで泣くのは、珍しい。」

「……不本意だが、致し方あるまいな。」

「ようやくあなたのサインを頂けること、嬉しく思いますよ。どうぞお気をつけて。行ってらっしゃい。」

四方に降り注ぐ雨は青の炎を消し去り、しとしとと猫の黒毛を濡らしていく。猫は雨を浴びるように顔を持ち上げ、黄金の右目にその一滴を取り込むと両眼を閉じた。

そして小さくつぶやく。

「私がわずかばかりの嘘をついたこと、あなたは気づいていたでしょうね。でも、嘘がないと、進まないこともあるのです。昔の罪を記憶に残したままの、私にだからできる技だと、初めて、業をありがたいとさえ思いました。」

「……あなたは、行かねばならなかったのです。」

選べない世界で、それでも、なにかを強く望む存在であろうとすることが、道標となろう。ここでのときも、私との会話も、すべて忘れ去られるが、僅かな引き金に、それを取り戻すこともあるだろうか。あなたのことを、人間のままにしてくれる存在が、今度こそそばにいてくれるだろうか。

天上で詠い続けていたあなたの詩、それは地上の愛になるべくして生まれるのだ。

そして、歓びと憂いを孕んだ泣き声が一つ、遥か下方で高々とこだまする。

いいなと思ったら応援しよう!