【過去記事】20151204 人生の美しい歌
別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その5。言葉が出てこない期間、というのはそれなりに大きな出来事のあった年と重なる。
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年の瀬となりました。
一年のまとめとして、この文章を書いております。
もう、書いていいかな、と思いました。
この度、約6年半お付き合いした方と、去る5月に予定していた結婚を白紙に戻し、婚約を解消することとなりました。
ことの経緯の全て、それにまつわる私の心情のすべてをお話した方はいませんし、おそらくこれからも全てを知る方はいませんが、関わってくださった皆様にひとつのけじめとして、私の思うところをのべます。
結論として、彼とお付き合いをする中で得た私の感性はそのままに、この先続いていく私の日々をただ生きることしか、私の選択肢は残されていません。
この夏に観た舞台「ペール・ギュント」という作品のなかで、ヒロインのソールヴェイが主人公のペールにこんな台詞を述べるシーンがありました。
「あなたは私の人生を、美しい歌にしてくれた人」
その台詞は100パーセントその通りなのですが、同時に、人生を美しい歌にしてくれるのは、特定の人ひとりに限らない、と思った自分もいました。
傷付きながら、観たせいといえばそれまでですが、そう思った自分の感性もまた、私は大事にしたいと今思っています。
前撮り写真のアルバムを捨てるとき、身に纏うことの叶わなかった結婚指輪を捨てるとき、刻んだ彼の名と共に、自分の中の大きな何かをえぐり捨てる気持ちが致しました。
実際、そうなのだと思います。
人間は記憶でできていて、記憶を共有するということが人間関係であるとするならば、共有した記憶は私にとってのアイデンティティともなり、思い出を捨てることはつまり、私自身をも捨てることを意味したからです。
「あなたは私の人生を、美しい歌にしてくれた人」
本当に、美しい台詞でした。
そして、私もそう言い切れるくらいの愛情の極致を、相手の方には抱いているつもりでした。
しかし結局、やはり私にとって、人生を美しい歌にしてくれる人は、ただひとりのひとに代表されるものではない、と考えるに至った、ということなのだと思います。
彼と歩んだ日々は確かに私の人生の歌の一節を成し、それは消えるものではなく、けれど、完成するものでもありませんでした。
出来あがった私の人生の歌を聴くことができるのは、私、ではないのです。
作品を観ていて、主人公ペールの罪は、自由に生きることによって無責任に様々な人を傷つけたことではなく、一人の人間を、神にしてしまったことだな、と思いました。
何もかもを許して、全能の愛をもってその人を包み込むのは神で、人間を神にすることこそが、人間の罪だと、思ったのです。
同じくらいの気持ちで、彼を思っていたと述べました。
でも、私は結局、悲しいくらい人間で、ただのひとりの、おんな、でした。
(そして、思い惑う今回のことで胸に突き刺さったことは、きょうだいの賢さと優しさでした。曰く、「失敗する権利だって、貴方にはある」、「選んだものが、結局は正しい」だとか。歳を重ねて、きょうだい、というもののありがたみを感じることが多くなりました。
自分で選ぶことの出来なかった人間関係に救われるだなんて、人生はなんて単純で奥深いものなんだろう、とも思いました。)
自分の弱さや、愚かさと、改めて向き合う1年でした。
ここから、進んでいきたいと思っています。
やがては私も、誰かの美しい歌の一節になれますよう。