大樹と老人(2019-8-10)
ある池のほとりに大きな大きな樹が立っていた。
そこへ老人が通りかかり、池の縁の石の上に腰掛けて、小さな溜め息をついた。
しばらく樹は老人を眺めていたが、何度も何度も溜め息をつくので、どうしたのかと思い声をかけた。
「これ老人よ。そのように物憂げに溜め息をつかれているのはどうしたことか」
と樹は尋ねた。
声のする方へ顔を上げ、じっと樹を見つめたかと思うと、やがて老人はこう答えた。
「あなたのように寿命の長いものには分からないだろうが、歳を取り先が見えた者はこの世の儚さを憂いてこのように溜め息でもつくものです」
老人はゆっくりとそう答えると、またひとつ溜め息をつく。
風が吹いて大きな枝葉を揺らしていく。
木の葉が風に舞った。
木の葉は水面に浮かんで流れゆく。
樹は尋ねた。
「そうか。では訊くが、儚いこの世の何を憂うのか?」
樹を見上げて、さらに空を見つめた老人は答える。
「命の短さを。老いてゆくこの体を。残された者の悲しみを。思い通りにならぬこの人生をです」
樹は尋ねた。
「では、私と代わる事が出来たならそうするかい?」
老人は静かに首を横に振る。
「失礼だがどんなに寿命が長くとも、あなたのように動かぬものにはなりたくは無い。動けぬ不自由さは欲しくないのです。愛する者と歩めぬ人生に意味は無いのです」
樹は笑った。
「それは動ける自由があれば、寿命が短くても良いと言うことか?」
老人もふと小さく笑う。
「そのようになりますね」
樹は続ける。
「私は長い年月ここに立っている。
人とは足があり動ける自由を得て、限りある命を全うするものだと私は見ているよ。
動けぬ私は時折とても羨ましいと思う。
さて老人。もう少し話し相手になってくれぬか?」
風が水面を通り抜ける。
老人は気持ち良さげに目を瞑ると、
「良いでしょう。私には時間だけが残されています」
樹が頷いたかのように1本の細い枝が揺れた。
「あなたは先程残された者の悲しみを憂いていたね。私は動けぬが種を子として回りのものに運んでもらい、長い年月をかけて大地に育ててもらう。しかし、中には枯れるものもある、風に折れるもの、雷に焼かれるもの、病に朽ちるものもだ。そうだ!人に切り倒されるものもある。
どんなに悲しくとも助けることは出来ないのだよ。
あなたがた人は、手を差し伸べて看病し、助け合い、抱きしめてその者を思う心を伝える事が出来る。
私はその事が本当に羨ましい」
老人は思い出に浸るように目を閉じる。
一筋の涙が流れる。
「大樹よ。確かにそう言われればそうだ。
私は心を込めて出来うる限りの事はしたつもりです。だからこそ思い出に浸り、愛する者を思ってこうして涙することが出来るのでしょう。
あなたに比べれば幸せなのかもしれません」
樹は黙って聞いていた。
老人は続ける。
「ただ。
私は悲しくて悔しいのです。あの時ああしてやれば良かった、こうしていればこんな事にはならなかった。後悔ばかりがこの胸を苛むのです。だからこそ思い通りにならぬ人生を憂いて嘆くのです」
樹が頷くように風に揺れる。
「老人よ。それでも私はあなたが羨ましいのだよ。私は観ることしか出来ない。子が仲間が倒れても悲しみの涙を流す事すら出来ない。
人は男と女が出会い愛し合い、子を成して共に手を取り合って育て、泣き、笑い、そんなたくさんの出来事を思い出として旅立って逝く。
本当に本当に羨ましいのだよ」
さらに樹は言う。
「この枝先にある木の葉一枚、私には思い通りにする事は出来ぬ。
春が来て芽吹き、花が咲き、夏が来て繁り、秋に実を付け、冬に葉を落とす。全てが自然の成すままだ。風が運ぶ木の葉一枚思い通りに成った事は未だかつて無いのだよ。
さて老人よ。思い通りにならぬのは、人であるあなたかな?この私かな?」
強い風が水面を渡って吹き付ける。
樹々がざわついて、たくさんの木の葉が舞った。
老人は静かに微笑んだ。
「大樹よ。このように老いた私を慰めてくれて有難いことだ。少し気が晴れました。
私こそあなたが羨ましい。どんなことがあろうとも揺るがないあなたこそが。人は私は長く生き、年老いて智恵があろうとも未だに思い煩い迷うのです」
樹は言う。
「私はただ観ているだけ。この下で多くの者と話をし、人というものをたくさん観てきたに過ぎないよ。
老人よ。ひとつ面白いものを見せてあげよう。
ゆっくりと深い呼吸をし、目を閉じてご覧」
老人は言われるがままにした。
馨しい香りと共にサーっと風が吹いた。
樹は優しい声で言った。
「老人。目を開けなさい」
老人の目の前に広がる光景は
春爛漫の花萌ゆる大樹の姿だった。
そしてその樹の下に、とても美しい若い女性と、とても凛々しい青年が見つめ合って立っていた。
手を取り合い何かを話しているが声は聞こえない。
老人の目から大粒の涙が溢れた。
大きな声で呻き、泣き始めた。
声にならぬ声で。
樹は老人に優しく語りかけた。
「これは私の記憶の一部だよ。
いつかの日にこのふたりは、この私の元で永遠の愛を誓い、幸せな日々を過した。とても幸せなふたりを見るのは、私の楽しみであり幸せだった。きっとその先も幸せな人生を歩んだことだろう」
老人は泣きじゃくるように樹に向かい話した。
「私は知っています、このふたりを。
私と私の愛する妻です」
老人の上にたくさんの花びらが静かに降りそそぐ。
新緑の葉が揺れる。
やがて舞い落ちる花びらに隠れて男女の姿は見えなくなった。
老人は大きく目を見開いて言う。
「大樹よ、ありがとう。ありがとうございます。
思い出しました、あの頃の幸せな日々を。希望に満ち、未来を語り合った日を」
大樹は言う。
「老人よ。私が見せたのはただの幻だよ。
私から見れば人の人生は、ほんの短い幻にしか過ぎない。だけれども、本当に本当に美しい幻なのだよ」
更に言う。
「もしあなたが樹になったとすれば、気が付くだろう。思い通りにならぬ花や葉は人生を彩る大事なものだと。
動けぬ樹にさえこのように変化はあるのさ。
花は咲き葉は散りゆくけれども、それを留めることは出来ない。
ひとつひとつが起こるべくして起こり、美しい時間を成していく。
私は見ているだけ、どんな時でもね」
老人は涙を拭い、立ち上がりこう言った。
「私は美しい時間の中に生きてきたことを思い出しました。大樹よ、ありがとう。
私は散る花を木の葉を、押しとどめかき集めようとしていました」
樹は言う。
「老人よ、その通り。移りゆくもの、変わりゆくものこそ美しい」
老人は大樹に向かい深々と辞儀をして去っていった。
大樹はその姿を消えゆくまで眺めていた。
大樹は呟く。
「あなたがたこそ、私にとっての花であり、木の葉なのだよ」
また風が吹いて、葉が舞った。