【エッセイ】狂気の邪魔をするな
しなければいけないことから逃げて、noteに文章を書き始めてしまったのだが、何かを書きたいという欲求があったわけでも、書かなければいけないという切羽づまった創作意欲に背中を押されたわけでもなく、ただ逃げ道としてそこにパソコンとインターネットがあったから書いているに過ぎない文章が、名文を生み出すことはないだろうと半ばあきらめた気持ちで、かつ、時間に追われたタスクをないがしろにしている自分への僅かな後ろめたさを薄めるために、さらに言えば、何事かを行っているふりをするためにはうってつけのタイピングという行為をもってして、誰に見られているでもないのに、誰かしらの目を気にして自分を取り繕っている様をもう一人の自分がやや上方から見下ろすと、なるほどただの男が一人、パソコンに向かって仕事をしているように見えなくもないが、その隣にオートで対戦をしているポケポケの画面が見えてしまっており、いよいよ救いのない、ただ遊んでいる男が仕事をしているふりをしているようにしか見えなくなってしまった。
小学生の頃、体力測定の反復横跳びで私の回数を数えていた女子が数回多く私に申請した。自分自身で跳びながら回数も数えていたため、線を踏めていないなどの理由で少なくなることはあるにしても、増えることはないだろう。その時点でおそらく私はその子を信用していなかったのだろうけれど、「ほんまに?」と聞き返せば「ほんま」と返ってくるからそれ以上の追求はしなかったのだけど、二回目も同様、多く私に申請したため「絶対間違ってる」とその子を責めた。
「だってその方が喜ぶと思った」というのが、その子の主張で、その子なりに私を喜ばせようとした結果だったらしい。その時には教師も間に入って「これは〇〇ちゃんの優しさやね」という言葉でその子を慰めた。
「優しさ」という言葉は正義の側に置かれることが多いから。当時の私はそれ以上言い返すことができず、私の本当の記録は分からないまま、体力テストは終わってしまった。
人間を生物として考えると、生きるために必要なエネルギーは少ない方が良い。生命維持の効率がいいから。だから、必要以上に筋肉を使って肥大させたり、死に近づくほど心拍数を上げて心肺機能を鍛えたりする行為は生命維持に逆行する行為だ。いわば狂気に近い。ただ、物理的に死に近づくから、その後により強い生を実感できる。記録を求めることは狂気の証明で、狂気を証明されることが生を濃く実感するための証拠になって、自分自身の数少ない「私」への実感になる。
彼女の優しさは、私の狂気の邪魔でしかなかった。
優しさと正しさは必ずしも同居しないことを知った。
そもそもそれは優しさだったのだろうか。
ただ彼女が彼女自身の印象を肯定的に捉えさせたいがためのエゴであったのではないだろうか。
狂気に水をさされた私のやり場のない感情が不信となって沈んでいったことを覚えている。