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ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』要約

『複製技術時代の芸術作品』(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit、1935年)は、ドイツの哲学家、文芸批評家、社会批評家などで知られるヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin、1892年 - 1940年)が著した文化批評、エッセイである。この批評は序文と結びを含めた19の章で構成され、芸術作品の複製の歴史、伝統的な芸術作品と現代の作品の違い、写真と映画が社会の認識に与える影響、ファシズムによる芸術の流用といった大きな4つのテーマが組み込まれている。

複製技術時代の芸術

 本批評はⅠの序文、マルクスの上部構造理論の発展についての考察からはじまる。下部構造に比べ、はるかにゆっくり進行する上部構造の変革はベンヤミンの時代になってようやく指摘可能なものとなった。これには複製技術によって生じた芸術の発展傾向を確立する必要があり、その傾向は、ファシスト政権が好む伝統的な概念――創造性や天才性、永遠の価値や神秘の概念をまったく役立たずにしてしまう諸概念であることを示す。

欠けた「アウラ」

 ⅡからⅥの章にかけて、複製技術についての歴史を追った概要、アウラの概念、アウラ凋落の社会的諸条件、複製技術による芸術の寄生先(儀式から政治へ)の移行、礼拝的価値と展示的価値の交替としてみる芸術史について述べられる。ベンヤミンはこの章で1900年を画期として登場し、独自の立場を確保した複製技術が、従来の伝統的な形式の芸術と取って代わり、どのように作用するかを明らかにしていく。
複製は、時間経過による物質的構造の変化や所有関係の交替といった固有の歴史を真似できないために、「いま、ここに在る」という特性であるアウラに欠けている。しかしこのアウラの欠けた複製の氾濫によって、作品は伝統の領域から切り離されることとなる。この複製の氾濫もといアウラの凋落についての諸条件を、ベンヤミンは芸術意志を社会的観点から捉えたうえで、大衆運動の強まりであると呈示する。大衆は、事物を複製であっても手にすることに熱狂し、事物の一回性の克服による平等の感覚を希求しているという。真性の芸術作品の独自の価値は、作品の儀礼的機能、唯一無二性にあるが、複製技術による写真の登場によりこの価値は危機に立たされる。しかしこの複製技術は芸術の根拠を初めて儀式から開放し、政治に根拠を据える。それから芸術史を礼拝的価値と展示的価値の交替として描き出し、現代はとりわけ後者に重点が傾いていることを示す。現代の芸術形態である映画において従来の芸術的な機能は副次的なものとなり、映画は人々の知覚・判断・反応能力の訓練に役立つという新たな諸機能をもつことが示される。

「礼拝的価値」を駆逐した「展示的価値」

次にⅦからXⅡで、写真と映画の比較、古代ギリシアの彫刻と現代の映画における正反対の性質とその認識、映画理論の発展、映画俳優が置かれた状況を通して芸術の全体的な性格が変化した原因と実態が明かされる。
展示的価値をもってして礼拝的価値を駆逐した写真は、唯一、追憶される人間の顔という礼拝的価値のみを残し、保持していた。しかしアジェ(Jean-Eugène Atget、1857年 - 1927年)の人影の一切を排除した写真の呈示した展示的価値が、真っ向から礼拝的価値を打ち負かした。

Eugène Atget, rue de Grenelle, Hôtel du duc de Bauffremont, 7ème arrondissement, Paris.
Eugène Atget, Saint-Nicolas du Chardonnet, Paris.

これ以来、芸術は自己疎外を特性として持つようになる。
映画は複製を大前提として成立するものであり、映画において複製されるものは、絵画を複製する写真のように複製される作品ではない別のもの、つまり自己疎外されたものである。映画俳優は演劇における俳優と違い、作品として対峙するはずの一般大衆ではなく、機械やプロデューサーや監督の前で演技をおこなう。俳優は自身から映像だけを切り離されて、大衆の前に作品としてあらわれ、このような映画の特性は人間を、人格のアウラを持つことを断念して活動せざるをえない状態にする。ベンヤミンは映画においてもっとも重要なのは、俳優が不可視の一般大衆に向けて演技をするのではなく、機構を前にして自己自身を演じることであると主張している。

大衆と映画

つづくⅩⅢ章以降では、現代の大衆により注目する。新聞の登場はこれまで限られた人々にのみ許された自身の表現を、読み手にも許すようになる。大衆は映画にたいしても自己表現を要求しているのである。しかし資本主義的に搾取された映画において、その要求は無視される。この大衆の徴候こそが映画を導いたのだが、絵画においてシュルレアリスム絵画に同様の性格が見られた。それこそ映画の体験や誰もが専門家として批評できる性質である。そして一番重要な映画の社会的機能が、撮影を通して人間が自身への洞察を深め、機械装置の機能によって人間の無意識の空間を示すことである。くわえて、映画は大衆に集団的な夢を呈示した。関与する人間が極めて大衆化したことで、芸術作品は関与の在り方を変えた。これに先んじて、作品からあえてアウラを剥ぎ取っていたのがダダイズムである。現代の知覚に課された諸問題である、ダダイズムや建築物がもつ触覚的な質やくつろいだ受容への慣れを、大衆を動員することによって、助ける働きが映画にはある。
そして最後にファシズムが芸術作品を流用して生み出した自己疎外に、コミュニズムは大衆を動員し芸術を政治化することで応えるであろうとの見解が示され、この批評は結ばれる。



批評を概観すると、これまでの芸術作品を前にした人々の立場が、受動的な立場から能動的な立場へ移行したことが示されていることがわかる。ベンヤミンが映画において俳優が自己を演じるのが重要だというのは、時代の要請に答えず、俳優からはあるべき能動性が失われているからである。反復性や平等を自身の手元に追求する大衆の姿には能動性がよくあらわれている。そして芸術においては、この批評でベンヤミンは社会や政治への考えを打ち出しながら、独特な観点をもたらしている。

ベンヤミン曰く、いつの時代であっても芸術の最も重要な課題のひとつは、時代に先駆けた新しい需要を作り出すことである。同様に新しさを希求したダダイズムは、目標を行き過ぎてしまったという。
映画が市場価値を高度に獲得しているのに対し、それを、ダダイズムはより高い野心をもってして犠牲にすることになった。その野心の意図とは、映画と同様に、大衆にショックを与えることである。映画が連続する短い映像の集積を観客にみせる性質でもショックを与えることができたのに対し、ダダイズムは作品をみた大衆を激怒させることで強烈な気散じを生んでいるという。この怒りによって冷静に作品に集中できない状態によって、ダダイズム作品は気散じの状態を生み出しているのである。



ベンヤミンが本批評内で紹介していた、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年 - 1968年)の代表作である《泉》を見てみよう。

マルセル・デュシャン《泉》、1917年。

この作品は、大量生産された小便器をひっくり返し、”R. Mutt”と書き加えただけのものである。この「行為」は、従来の芸術や美の概念を覆し、芸術家の役割や芸術の定義について激しい論争を巻き起こした。デュシャンは、大量生産品というアウラの凋落した複製品から、さらにこれをひっくり返すことで機能を奪い、偽名のサインを記すことで存在しない人物の所有を示し、公共性を剥奪し、これを芸術作品として発表することで伝統的な芸術の規範に挑戦しているのである。ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』の草稿でデュシャンについて「分類不可能」とし、本来の使用機能から引き抜かれるか、廃棄処分された者における経験によって、現代人は芸術作品特有の効果を感じると述べている。ベンヤミンがいうこの芸術作品特有の効果とは、『複製技術時代の芸術作品』で述べていた「一発の弾丸」のことだろう。
この作品が公衆の怒りを買い、論争を引き起こしたことは、この作品の触覚的な質によるものである。しかし、これはあくまでも怒りという感情の道徳的範囲におさまったものでしかなく、映画こそがその生理的なショック作用を開放した、というのがベンヤミンの見解である。

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