シーモア・グラースの自死について──シビルとの鏡の関係

J. D. Salinger, A Perfect Day for Bananafish, "Nine Stories", Little, Brown and Company, 1953.(邦訳版では、野崎孝(1974年)、中川敏(1977年)、柴田元幸(2009年)による邦訳がある。)

 A Perfect Day for Bananafishの主人公が自死した理由について、自死する前のthe young man(以降、the young manはSeymourとする)とSybilの関係から考察してみようと思う。

虚言癖

 このA Perfect Day for Bananafishは内容のほとんどが会話劇で構成されており、登場する人物の大半(Muriel, Seymour, Sybil)には程度に差はあれど、多少の虚言癖がある。この話は大半が疑わしい事柄で構成されているのである。
Murielは、彼女の夫であるSeymourを危険な人物だと非難する自身の母親にこれ以上Seymourを非難する手札を与えないように、そして旅行先での電話が長引かないために適当を言う。
 Sybilは子どもらしい虚言癖で、Seymourが言った"Mixing memory and desire"を示すかのように彼女はLittle Black Samboの要素から架空の地名(Whirly Wood)や魚が口に咥えていたバナナの本数を連想した。
 主人公であるSeymourもSybilとの会話のなかで、Sybilの言うことに対して、それに関係させた出鱈目ばかりを話している。Sybilの子どもらしい嘘とは違う、子どもに合わせた出鱈目である。だが彼が話してみせた出鱈目のなかに一つだけ、そのような出鱈目とは違う例外があった。それがbananafishの話である。彼がbananafishの話を持ち出すのは、Sybilが架空の人物の名前を言ったことに感心した後だ。つまり彼はこれまでSybilの話に乗って出鱈目を言っていたのを少し変えて、Sybilと同じように何かから発想して、自分から架空の生き物の話をした。このことからbananafishは彼自身の何かを象徴している可能性がある。(Seymourが登場する他の作品で彼は周りの人間が彼を幸せにしようと企んでいると「逆パラノイア」に悩んでいることから、魚が「幸せ」を暗示していることが考えられるが、この作品単独では上手く考察できないので頭の隅に留める程度にする。)

鏡の関係

 SeymourはSybilと出会ってすぐに彼女が着ている水着が黄色であるのにもかかわらず青色だと言う。陸軍上がりである彼が色盲であると考えることは可能だが、黄色と青色は明度があまりにも違うために間違えることはあまりないそうでこの可能性は薄い。彼が色盲でなければ、なぜ水着を見て明らかに違う色、しかも補色を挙げたのか? これは、SeymourがSybilについて何か言うとき、それがSeymour自身への自己言及である可能性を示唆しているのではないかと考える。というのも彼がbananafishの話を持ち出した後すぐに、彼の着ている水着の色が青色だと判明するのだ。Sybilと行われる会話がSeymourの自己言及である以上、彼が彼女に何か鏡のようなものを見出していた可能性がある。それこそ彼女が言っていた"See more glass"を実践してあげていたのかもしれない。
 この鏡の説を補強するものとしてこのA Perfect Day for Bananafishにおいての右と左の関係について指摘しておきたい。作中でrightという単語が出てくる回数は22回で、そのうち「右」の意味で出てくるのは6回、leftは7回で「左」の意味では6回である。そしておそらくだが意図的にSeymourに右、Sybilに左の描写があてがわれており、これは彼と彼女の鏡の関係を保証していると思われる。SeymourにとってSybilが、SybilにとってSeymourが鏡写しの存在となるようにSeymourが振る舞っていたのだとすれば、先述した彼の打ち返すようなでまかせや青と黄の補色同士の間違いにもある程度の納得がいく。また興味深いことにSeymourとSybilが接触する場面(SeymourがSybilの足を掴んだりする場面等)では必ず左右両方が描写として登場する。

主人公の自死

 SeymourとSybilとの会話は、架空の生物であるはずのbananafishをSybilが「見えた」と言うことから終わりを迎える。楽しそうな彼女に呼応するように、Seymourは舞いあがって彼女の、両足ではなく"片足"("one" of Sybil's wet feet)にキスをし、彼女を怒らせてしまう。そしてSybilは岸にあがると、Seymourにさよならとだけ言って何の未練も無しにホテルへ走っていく。これはある意味、二人の鏡写しの関係が切れた瞬間であるだろう。以降、ホテルに一人で戻るSeymourはエレベーターに乗り合わせた女性に「自分の足をじろじろ見ていた」と難癖をつけ、部屋に戻って拳銃で自死する。この最後の場面はこの作品を奇妙たらしめる一番の理由である。
 Seymourの足について。彼自身の言い分や、彼がピアノを弾いていたこと、Murielがホテルにいる精神科医に夫の体調について尋ねられた際にピンときていなかったことから、彼の足は少なくとも外傷があるわけではなさそうだ。軍隊経験から精神的に足が動かしにくくなったことも考えられるが(それに彼は過去に入院していた)、Seymourは二日前に車を運転していたし、あのSybilがSeymourの足の動きを妙だと指摘しないことは考えにくい。つまり、他に理由がある。先にSeymourとSybilの鏡写しの関係は切れたと言った。だが実はこの関係は終わっておらず、SeymourはSybilと別れた後に会話の最後の彼女の怒りを再現してみせたのだとは考えられないだろうか。
 問題のSeymourの自殺については、これがもしSybilの何かしらの行動を反映しているとすれば、順繰りにいって、彼女がホテルへ向かって走っていくことを反映しているといえるだろう。ここの地の文にはわざわざ"without regret"という描写がある。彼が躊躇いなく右のこめかみに向かって、引き金を引いたのはこの描写の再現ではないか。
 SybilはSeymourの前で走り去り、SeymourはMurielの前でこの世を去った。これが鏡の関係として釣り合うかどうかはわからないが、Seymourに写るはずのSybilがこのときSeymourの前から消えていたことで彼の行動に制御が効かなくなったとも考えられる。実際、作中でMurielの母親は医師に「Seymourは完全に自制力を失うかもしれない」と言われたことを娘に伝えている。その可能性が現実になってしまったのがこの結末であったと考えられる。

結び

 Seymourの自死は、単なる精神的な病理や戦争のトラウマに起因するだけではなく、Sybilとの象徴的な鏡の関係に深く結びついている可能性がある。作中で繰り返される虚言や、色の象徴性、そして右と左の描写を通じて、SeymourはSybilを自分自身の反映として見ていたことが示唆される。Sybilとの関係が崩壊した瞬間、Seymourは自己のアイデンティティや現実との接点を失い、自ら命を絶つという極端な行動に至ったのではないか。
 A Perfect Day for Bananafishは、このような象徴的な関係性と心理的な微細さを描き出すことで、Seymourの自殺を単なる物理的な死ではなく、内面の深い闇と葛藤の表出として読者に提示している。Seymourの行動は、Sybilとの鏡の関係が崩れたことによる精神的な喪失感に起因しており、その意味でこの作品は、人間の内面に潜む自己崩壊のプロセスを巧みに描いたものといえるだろう。

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