快晴が落ち着かない
去年も確か同じような天気の中同じ場所でこうやってnoteを書いていた気がする。それにあの11日もこれくらいのどかな天気だったと思う。映画やアニメのように、何か起こりそうになると突如雨や雷になるなんてことはなかった、その方が警戒できたかもしれないのになんて、不毛なことを思ったりしている。
不謹慎かどうかなんて当事者が判断するのだから、部外者が勝手に同情したり哀れんだりしてこないでほしい。あの国民的ロックスターはもうとっくのとうにTSUNAMIを歌っていい。まあ彼らはヒットソングで荒稼ぎしようという人間性はなく思慮深いから、もう二度とステージで歌うことはないのだろう。だから訳も分からずさっき僕が代わりにカラオケで歌ってきた。本当にいい曲だった。
気持ちの邪魔をされたくないから、今日はバイトを休みにした。自分の中に閉じこもったまま黙祷したかった。酒は飲むか否か迷いながら、一缶空けた。去年もそんな感じだった気がするから。
街ですれ違うにこやかな人たちを軽蔑するような目で見てしまったことは少し申し訳なく思った。当たり前だ、当事者でない以上今日は普通の月曜でしかない。素朴な景色の写真を上げて追悼の言葉を並べるインスタにもうんざりした。触れないことは不謹慎だという世間体を勿て思ってもない言葉をつらつらと並べてるだけの軽薄な人間にしか今は映らない。
立ち直ることはきっと一生ない。忘れることもない。時が解決するというのは単に遠い思い出の記憶となっただけで、記憶は残り続ける。全員そうだ。
何が言いたいのか自分でも分からない。こうやって卑屈なことを並べて鮮明によみがえりそうな記憶を遮断する自衛行為なのかもしれない。しかし大きすぎる想いとはこういうものなのだろう。説明がつかない。解決もない答えもない。そういう多くの人たちが、ああでもないこうでもないと行き場のない思いを巡らせながら今日この時間を過ごしている。そして明日から何食わぬ顔でまたいつもの生活に馴染んでいく。