大衆化される「声」
最近はブログやfacebook、Twitterなどを通して本当に多くの人が発信をするようになった。少し前までなら、ある発言や書物が公共のものとなる、つまり他人の目に触れるというのは限られた人のものでしかなかった。
書き手が限られていたということはつまり、当事者が書き手の中に少なかったということでもある。無名の人々の感じたことや考えていることというのはある種の人、例えば作家や学者のフィルター越しにしか見えてこないもので、それは当事者の直接の声ではなかったわけだ。
こんなことを考えるようになったのは、もちろん、自分がいろんな形で日常的に不特定多数の人達に向かって発信をするようになっているからだ。自分もまたその無名の人々の一員として。
本だって今や自己出版など、発信ツールはどんどん大衆化している。
今までなら聞き取れなかった人々の声も手段とタイミングがあえば、あっという間にいろんな人の耳に届くようになった。それこそ「波紋を呼ぶ」という表現のような状況があちこちで起こっている。
世の中が賑やかになって、ある意味で社会の音のボリュームが上がったとも言えるかもしれない。
マーケティングの世界でも、そういった無数のつぶやきを拾いながら戦略を組むという。
例えば私の仕事の事でいえば、あるタイトルのライセンスを買って、それがどの程度うけそうなものなのか、市場調査的なことはfacebookのlikeの数やらTwitterのRT数である程度可視化されうる。
また、マンガの世界は特にそうなのかもしれないけれど、映画やドラマのストリーミングと似たような現象があって、ようはネットワークがあまりにも発展したので、けっきょくスキャンで先に読んでしまう人たちが多々いる。それにそういうスキャンサイトのためにわざわざ無償で翻訳をする人までいるんだからすごい。そしてそのスキャンを読んだ人たちから、ある程度の反応が分かる。なんだか出版業も大変になってきているわけだ。
また、私は少し社会人類学をかじったので、フィールドワークというのをしたこともあるわけだけれど、そのときのフィールドが某都内の公園のテント村だった。
もちろんそこの住民たちはいわゆる「ホームレス」なわけで、私は彼らの声を聞こうとそこに通ったわけだけれど、でも少し調べるとすでに彼らが「当事者」として自ら声を上げていたことに気がついた。無名の彼ら、むしろ社会で声を上げることが最も難しいと思われるところにいる彼らなのに、ネット環境を駆使し、発信をし、ブログをつけていたりもした。
様々な「声」が大衆化した、ということなのだろうか。社会の異なるレイヤーに属する人たちが日常的に実際にふれあうことはまだ少ないとしても「当事者同士として」声を聞き取り合うという機会は増えているわけで、いろんな「声」にアクセスすることも簡単になった。
この社会の声。大衆化していくこの声。たくさんあってその中で迷子になってしまいそうだと思うことも度々あるけれど、その声が流れる画面をさっさとスクロールして眺めて、おしまい、とするのではなくて、ひとつひとつ時間をとって向き合ってみるとなかなかおもしろい。
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