「尊敬」を再定義
僕たちは、憧れたり、あるいは目標とする人物を「尊敬する」と言う。
その「人物」に対し、また「努力」に対して尊敬の念を抱く。
辞書では、このように書いてある。
尊敬の対象となる人物の代表例は、
・歴史上の偉人
・政治家
・事業家
・活動家(登山家とかボランティアスタッフとか)
・スポーツ選手
・芸術家
・科学者
・作家
・漫画家
・映画監督
などである。
ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏は、これに対し、
違う!
と意を唱えている。
岸見流アドラー哲学での『尊敬』は、以下である。
岸見流アドラー哲学では、辞書の説明は尊敬ではなく、
『恐怖』
『従属』
『信仰』の、いづれかだと言い切っている。
「相手のことを何も見ておらず、権力や権威に脅え、虚像を崇め奉っているだけだ」と喝破していた。
たしかに…、と思った。
僕は、織田信長を尊敬していると思っていた。
だが、僕は、織田信長の【真実】を知らない。
「こういう人物だった」という、歴史学者や歴史小説家の【仮説人物像】を、崇め奉っているだけだ。
その人物像が、正しいのかも分からずに。
僕は、岸見流アドラー哲学の『尊敬』を受け入れる。
尊敬とは、能力なのだ。
人間の姿をありのままに見て、
その人が唯一無二の存在であることを知る。
という能力だ。
僕は、誰であっても色メガネで見ない。
僕は、誰であっても「唯一無二の存在」であると知っている。
ブッダの言葉を借りれば、僕が尊いのと同じく、彼も彼女も尊いのだ。
おしまい
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