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「尊敬」を再定義

僕たちは、憧れたり、あるいは目標とする人物を「尊敬する」と言う。
その「人物」に対し、また「努力」に対して尊敬の念を抱く。

辞書では、このように書いてある。

1.その人の人格とうといものと認めてうやまうこと。
2.その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。
「互いに—の念を抱く」「—する人物」

引用:goo辞書

尊敬の対象となる人物の代表例は、

・歴史上の偉人
・政治家
・事業家
・活動家(登山家とかボランティアスタッフとか)
・スポーツ選手
・芸術家
・科学者
・作家
・漫画家
・映画監督

などである。


ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏は、これに対し、

違う!

と意を唱えている。

岸見流アドラー哲学での『尊敬』は、以下である。

【尊敬とは】
 人間の姿をありのままに見て、
 その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
 (エーリッヒ・フロムの言葉)

引用:『幸せになる勇気』自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ


岸見流アドラー哲学では、辞書の説明は尊敬ではなく
『恐怖』
『従属』
『信仰』の、いづれかだと言い切っている。

「相手のことを何も見ておらず、権力や権威に脅え、虚像をあがたてまつっているだけだ」と喝破していた。


たしかに…、と思った。

僕は、織田信長を尊敬していると思っていた。

だが、僕は、織田信長の【真実】を知らない。
「こういう人物だった」という、歴史学者や歴史小説家の【仮説人物像】を、崇め奉っているだけだ。

その人物像が、正しいのかも分からずに。


僕は、岸見流アドラー哲学の『尊敬』を受け入れる。

尊敬とは、能力なのだ。

人間の姿をありのままに見て、
その人が唯一無二の存在であることを知る。

という能力だ。

僕は、誰であっても色メガネで見ない。
僕は、誰であっても「唯一無二の存在」であると知っている。

ブッダの言葉を借りれば、僕が尊いのと同じく、彼も彼女も尊いのだ。





おしまい


※この記事は、エッセイ『妻に捧げる3650話』の第1632話です
※僕は、妻のゆかりちゃんが大好きです



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