第315話 「じぶんの花を」相田みつをさんの作品から その6
昨日の記事を読んだゆかりちゃんは、
「よしよし」
と、テレドヤ顔で言った。(テレドヤ顔:流行れ!)
「手で、アタマなでなでは、ないのかなぁ~?」
「そんなん、ベトベトしてて嫌やわ!」
「風呂入ったよ~」
「担担麺食べたから、油、飛んでるで」
意味はわからなかった。
うれしくてだろうか? なんか嬉しいんだな。そう解釈しよう。
◆事実婚生活が始まる
これまでの、『じぶんの花を』の「その1」から「その5」は、みんな、ゆかりちゃんでさえ、もうすっかり忘れているだろう。
だから、ここで、これまでの流れを紹介する。
【その1】相田みつをさんの「じぶんの花を」がスキ
↓
【その2】松下村塾に憧れてる
↓
【その3】自惚れしかないが「じょーじの花を」咲かせたい
↓
【その4】ウソをつかないと誓いアチコチにぶつかり女神(ゆかりちゃん)に出逢ったが、僕はタクシードライバーまで落ちた
↓
【その5】僕は、僕の職業を飾りたい
※房野さんのnoteのマネ(ゆかりちゃんが、これ、スキみたいだから)
このシリーズは、今日が最終話だ。
だから、当然、「じょーじの花」とは、という結論まで書く。
◆事実婚
僕は、愛知県にやってきた。今から6年前だ。
子どもの、苗字変更のタイミングを考慮して、事実婚とした。
「じょーじ、こういうの『フランス婚』って言うんやで~」
と言って、ゆかりちゃんは喜んでいる様子だったが、それは演技の可能性もあると、僕はそう思って、鵜呑みにはしなかった。
まあ、ちゃんと話し合ったし、何より、本音が漏れないことのないゆかりちゃんだ。今なら、演技なんかじゃないと明白だが、当時の僕は(少し不満だろうか?)(やはり入籍した方が安心なのかな?)と、少し、気をもんだ。
◆可能性の中で生きる
ゆかりちゃんは、僕の起業に反対だった。
ゆかりちゃんの下のお兄さんが、その昔、事業に打って出て、そして失敗したらしい。
僕にとっては【ちょうどイイ言い訳】ができた。
「ゆかりちゃんが嫌がるから」という、絶好の言い訳が。
もちろん、当時の僕の『表層意識』では、そんなことを思ってはいない。ただ、『深層心理』には、間違いなくあった言い訳だ。
今は、そうと分かる。
失敗が怖いし、失敗しないための超絶努力が想像できたし、本当は、僕自身が避けたかったのだ。
「可能性の中で生きる」は、アドラー心理学の言葉だ。
起業しなければ、【起業していたなら】という、可能性が残る。残り続ける。
「今の僕は仮の姿」だと言えるし、「起業していたなら、僕は、そこそこ稼いでいるよ~」と、そんなことも言えるのだ。
言わなかったとしても、思えるのだ。
◆じょーじ、口だけ番長になる
僕は、【自惚れ】だけは、常にあった。ず~っとあった。
僕は、「僕は正しい」と思って生きていた。
「間違っていたなら、即、改める」「これもまた正しい生き方だ」「上杉鷹山が『我、誤って改めるに憚り(はばかり:意味「遠慮」)なし』という名言を残している」「朝令暮改も、全て悪いわけではない」
「ゆえに、じょーじは、常に正しい」
僕は、本気で、そう思っていた。
だから、常に、何かを『批評』していた。
TV、上司、先輩、同僚、経営陣、
そして、ゆかりちゃん、・・・をもだ。
他者を尊重しない結果になっていた。そういう人間だった。そして、それに気づかない人間だった。
良かれと思って、教えてあげようと思って、
「あなたの為を思って」と、最悪な人間の最悪な口ぐせを、言葉にこそしてないが、心では100%思っていた。
正しさは人の数だけあるとは、思っていなかった。
世の中の、賢者の、誰かだけが正しい。そして、僕もまた正しい。そう思っていた。
書いていて恥ずかしくなるが、つい最近まで、本当に、そう思っていた。
誰も聞いてくれないウンチク。自論。批評。
それらの、唯一無二の聞き手は、・・・ゆかりちゃんだった。
ゆかりちゃんはウンザリしてた。
そしてケンカになった。
このケンカは、言い換えれば、
「僕の【正しい】見解を、ありがたがって聞け」、
「教えてあげるんだから、もっと真剣に聞け」、
「真剣に聞けば、この考え方の素晴らしさが分かるから」、
「『じょーじ、スゴ~イ!』『じょーじ、最高~~~!』って、なるから」、
となり、
そして、「なぜ、もっと賞賛しないの?」となり、「ちゃんと聞いてないからだ」となったのだ。
僕は、アホだった。
ゴルフ場で、頼まれてもいないのに、部下に指導し怒鳴る上司。恥ずかしい行為を恥ずかしいと気づかないジジイ上司と、やってることが全くもって同じだった。
◆文筆家のきっかけは作詞からだった
老後を思考した。年金だけじゃ少なすぎるのだ。
僕は、きっと、90歳までピンピンして生きている。
また、フランチャイズ経営が浮かぶ。
らーめん屋。
・・・ジジイで、体力持つか?
カギ屋
・・・どうなのかなぁ。
そんなタイミングで、友人のモリゾンと作詞作曲を行なった。僕は、作曲はムリなので、作詞担当だ。
そして、この、歌詞を書くのがメッチャ楽しいのだ。
もっと書きたい! そう、小説も書きたいと思ってた! 脚本も!
◆シーソーの論理を捨てた
安定したサラリーマンか。それともリスクをとって起業か。
サラリーマンのできる貯金と年金では、老後の生活が経済的満足にいたらない。ならば、どっちみち、貯金と退職金を投下して、事業を始めるしかないのでは?
それなら、体力のあるうちに、そう、今すぐ事業に挑んだ方が良いのではないか?
アッチをとれば、こっちが下がる。そういうシーソー理論で考えていた。
きっかけは、友人の春山だった。
「小説? 書けばイイじゃないですか」「ブログでもイイんだし」「作詞も」と、事もなげに言ったのだ。
書くことは好きだが、趣味と思っていた。小説を書いて、賞にエントリーしてみようかとも思っていた。
「書けばイイ、って、簡単に言うなよ~」って思った。
でも、この春山の言葉がきっかけとなって、僕は、深く考えた。
そして、「あ、シーソー理論で考えている」と気づき、「サラリーマンで安定を確保しながら、副業を始めればイイんじゃないか?」という発想になった。
◆アドラー心理学
この記事、「じぶんの花を」シリーズには、もう何度も【岸見流アドラー哲学】の言葉を引用した。
相田みつをさんは、在家の仏教徒だった。
真理だからだろう。互いに『通ずる』ものがあるのだ。
僕の妄想では、ブッタは宗教家ではなく哲学者だ。
ソクラテスの言葉を弟子のプラトンが書き残したらしいが、プラトンもまた、哲学者だったのだろう。だからソクラテスは『哲学者』と定義されている。
一方、ブッタも哲学者で、ただ、こちらのお弟子さんたちは、『仏教』という宗教へ変化させたのだ。
これは僕の妄想だ。(草薙龍瞬著『反応しない練習』から生まれた妄想だ)
いづれにせよ、真理は、語り方が少し違っていたとしても、やはり真理なのだ。
◆結論
この記事は、相田みつをさんの「じぶんの花を」というシリーズの、最終話だった。
さて、「僕の花」を、説明するならば、こうなる。
僕は、サラリーマンとして仕事に挑み、かつ、文筆家として文章を書く。おそらくは、その姿が、「僕の花」なのだろう。by 53歳と360日の奈星 丞持
「で、将来は、どんな花を咲かせますか?」と、僕は僕に聞いてみる。
「将来なんて考えません」「今という【刹那に没頭】します」と、僕は答える。
この、【刹那に没頭する】も、岸見流アドラー哲学の言葉だ。草薙龍瞬さんも、ほぼ同じことを説いている。D・カーネギーも、同じことを著書の中で語っている。
没頭しているうちに、僕は、どこかへたどり着く。必ず、どこかへ。
僕は、刹那に没頭するだけでイイのだ。
◆〆
経済的に、少しは豊かになって、ゆかりちゃんにチョットの贅沢を体験させたい。
文筆家に没頭するのは、10年間と決めている。
あと、9年と2ヶ月だ。この期間中に、経済的な結果も出したいものだ。
ゆかりちゃんの望むことを、叶えたい。
僕たちの花を咲かせたい。
嗚呼、ゆかりちゃんの声が聞こえる。
「本物のグッチのバッグが欲しい」「旅行も行きたい」「国内あちこち」「海外なら、イタリアとか行きたい」「ブランドの財布も欲しい」「ブランドのネックレスも」
僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。そんなゆかりちゃんと、たくさん旅行したいのだ。
◆クイズor大喜利
この記事を読んだ、ゆかりちゃんのコメント、あるいは反応。
これを、皆さんに、予想していただきたい。
もしくは、皆さんにも、ボケていただきたい。
正解を予想する『クイズ』と捉えていただいても良し。ゆかりちゃん以上の天然ボケをかます『大喜利』と捉えていただいても良しです。
コメント欄に、投稿ください。
1週間のコメントの中で、ゆかりちゃんが1番気に入ったコメントの方には、【ゆかりちゃんが最も喜んだで賞】として、私がサポートに行きます!
2月10日の今日までのコメントの結果を、明後日、2月12日の金曜日の記事で発表させていただきます。(1日変更。ゆかりちゃんと、厳選なる協議をしなければ!)
審査は、ゆかりちゃんの独断と偏見になります^^(あれ? 協議では?)
初めてコメントされる方や、ここを初めて訪れた方も、どうぞどうぞ、ご遠慮なく、参加してくださいませ~。
(参加者が、超~少ない、ということが考えられますが、それでもまずは、5週間、なにがなんでも続けます!)
ノーマルなコメントも、もちろん歓迎です^^
最後まで読んでいただき、感謝感謝、大感謝です。