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第292話 今年、箱根駅伝で優勝した大八木監督は、なぜ泣かなかったんだろうか?


昨日、涙腺がゆるくなる記事を書いた。

その途中で、思考が広がった。

(大八木監督、全然泣いてなかったんだよなぁ)(優勝インタビュー観てて、「あれ?」って思ったんだよなぁ)

大八木監督が率いる駒澤大学は、箱根駅伝の『前、王者』だ。

「王者駒澤」と呼ばれていた。

その王者が、駒澤から青学に変わった。気がつけば、駒沢大学は12年間、箱根駅伝で優勝していなかった。

シード権さえ獲れなかったときもあった。

王者が、だ。


ちなみに僕は、青学の原監督が好きで無意識に青学を応援しながら箱根駅伝を観ている心は早稲田大学OBの、高卒者だ。

ゆかりちゃんは、東洋大学を応援しているが、理由は、酒井監督がイケメンだからだ。(よっ! ミーハー!)

そんな、駒沢大学ファンではない僕が、前王者の12年間のことを思うと、泣けてきたのだ。

箱根駅伝での優勝は、大八木監督の悲願だったはずだ。

だが、あのとき大八木監督は、まったく泣く気配すらなかった。ウルっとさえしていなかった。

なぜだ?


◆大八木監督

箱根駅伝ファンには説明不要だろうが、大八木監督はレース中に、走者を大声で𠮟咤激励する。

指導車からの声が、一番大きいのが、大八木監督だ。

𠮟咤激励ではなく、罵声や怒号に近いときもある。

それは、王者のときは、まだ良かっただろう。

しかし、王者でなくなってからは、周り雑音がデカくなったハズだ。

すぐに鎮火したので、誤報に近いモノだったのかもしれないが、パワハラ問題が報じられたこともあった。

そんなこんなで、悔しい思いもいっぱいしたはずなのだ。

悔しい思いを、奥さんもしただろう。でも大八木監督には、感涙の「か」の字もなかった。


◆泣かなかった理由

考えられるのが、今回の優勝には『棚ぼた』的な要素があったからかもしれない。

王者青学の、5区の走者が、まさかのブレーキになった。

最終区間の10区では、先頭の創価大と3分以上も離されていて、逆転は絶望的だった。しかし、ここでも、まさかのブレーキが起こった。創価大のアンカーに、何らかのアクシデントが発生したのだ。

大八木監督としては、実力で勝ち取った優勝というよりは、僥倖の優勝という感じなのかもしれない。


もう1つ考えられるのは、まだ、泣くほどの嬉しさじゃない、ということなのかもしれない。

大八木監督が目指しているのは、優勝ではなく、『連覇』だったり、3冠だったり、はたまた、教え子のオリンピック金メダルだったりするのかもしれない。


◆青学、原監督

そういえば、原監督も泣かない。

勝っても、負けても、泣かない。涙は流さない。ときにウルっとしても、きっちり耐え切る。

駅伝監督は、泣かないものなのか?

イヤ、東洋の酒井監督は、なんかの優勝のとき泣いた。

う~む。


◆泣かない指導者

選手の努力を想像する。その努力が実り、イイ走りだった。

そうだ。そりゃあ嬉しいさ。嬉しいだろう。こっちまで嬉しくなっちゃうよ~。

と、僕は、そう思って泣けるのだ。

逆もそう。

選手が、もの凄い努力をして、にもかかわらず、イイ走りができなかった。

無念だろう。悔しいだろう。

と、泣けてしまう。


まてよ・・・。

指導者は、上記のようなことは、イヤというほど見てきている。「日常風景」と言ってもいいくらいに、見ている。

努力が報われるのも「あるある」だし、努力が報われないのも「あるある」だろう。

毎年、毎レース、繰り返される光景なのだ。そして、選手の数だけ、苦悩やドラマがあるのだろう。

そもそも、箱根駅伝は各チーム、10人までしか走れない。

その10人を決めるのは、監督の仕事だ。つまり、ギリギリで、悩みに悩んで選ばなかった11番目の走者を、監督は知っている。決めたのは監督だ。

そして、その残酷な通知を選手にするのも監督だ。

監督とは、とてつもなく残酷な決断をしなければならない立場なんだ。


◆考えがまとまらないので書きながら考える

もうすでに、考えがまとまらずに、書きながら考えている。

もしかしたなら、指導者が泣くのって、違うのかもしれない。おかしいのかもしれない。

もちろん、その指導者の性格、タイプの違いと言えば、その通りだろう。要は、個人差だ。

泣く監督の良さもあるだろう。

泣かない監督の良さもあるのだろう。

ただ、大八木監督が泣かなかったことがきっかけで、指導者が泣く、泣かないを考える、イイきっかけになった。

そういうことだ。


イチロー選手は、どんなにスゴイ記録を達成しても、うれし泣きすることはなかった。

イチローさんは、個人のことでは、泣きそうにない。でも、チームが優勝したときは、大喜びして、そして、ちょっと涙がちょちょ切れそうなイメージがある。

僕は、20代、30代と、エリアマネージャーをしていて、メッチャ涙もろかった。子どものころから、泣き虫だったし。

これは、部下よりも、自分が好きな証かもしれない。要注意事項かもしれない。


選手の努力ゆえに、監督が涙する?

選手は、きっとみんな努力している。甲乙つけがたいほどの努力を、ほぼ全員がしているだろう。

優勝経験のある監督にしてみれば、そんじょそこらの努力ならば、別段、驚くことではない。凄い努力は普通のことなんだ。そういう世界なんだ。

しかも、選手の努力に負けない努力を、監督が自ら重ねていたなら?

そのチームの『当りまえレベル』が、もの凄い高い位置にあって、努力に「賞賛」や「感動」などをするという文化は、ずいぶんと前に、なくなっているのかもしれない。


そして、その努力の目的は【チームの優勝】だ。

個人で、区間新記録を目標にするとかもあるだろうが、それも、それがチームの優勝に貢献するからこその目標だろう。


共に努力を重ねた自分たちが、優勝したなら、これは選手にとっては「涙が止まらないほど嬉しい」だろう。

みんなの、あのときの頑張りも、あの努力も、あのアクシデントも、全てが報われたのだ。

嬉しいし、誇らしいし、仲間がありがたいし、活躍した仲間が眩しいし。


チームの目標に届かなかったときの悔しさも、「泣いてしまうほどの悔しさ」であろう。

「オレがもっと頑張れば」「あと少し、オレのタイムが速かったなら」「オレが足を引っ張たがために」「オレのブレーキが」と、メッチャ悔しいだろう。

4年生は最後だし、下級生もその4年生と戦えるのは、最後だったのだ。


個人で、区間賞や、区間新記録達成で、嬉しくて泣いているという選手は見たことがない。

みんな素直に喜んでいる。嬉しがっていて、誇らしげであり、責任を果たせたという安堵であったり。

でも、区間新記録樹立者の、嬉し泣きは見たことがない。


これは、イチローさんが個人記録では涙しなかったのと、同じ原因だろうか?

だとすると、監督が嬉し泣きしないのも、この辺に原因があるのだろうか。


区間賞獲っても涙しなかった選手が、応援に来ていた母親に会い、母親が泣いてて、それでもらい泣きするって言うのは、あると思う。

大八木監督や原監督も、もし、優勝して、そして奥さんと会ったなら、そしてそして、その奥さんが号泣してたなら・・・。このときは、きっとウルウルすると思う。

奥さんの涙の理由も、わかったりするだろうし。奥さんは、監督の自分を思って涙しているのだから、監督も奥さんのこれまでの苦労に、思いをはせるだろう。


優勝した監督とは、「嬉しい」という喜びよりも、責任を果たせたという安堵や、関係者への感謝の方が、勝っているものなのかもしれない。


◆結論

今日は、結論に達しなかった。

ただ、「泣き虫な指導者は超1流ではない」という予感がする。それを、理路整然と説明できないが、またいつか、より深く考察してみよう。


ちなみに僕は今、指導者ではない。

なので、涙もろい僕を、許容し、肯定しようと思う。私生活での涙もろさは、カワイイか、面白いか、ウザイかという程度で、決して【問題】や【悪癖】などではないだろう。

僕は、他者を想っての涙は良しとし、僕が僕のために涙することは、慎もうと思う。

なぜそう思うかは、上手く説明できないけど、しばらくは、そう心がけてみよう。


◆〆

今日の記事を読んだゆかりちゃんは、

「わたし、涙もろい丞持(じょーじ)って、スキやよ~」

っていうに違いない。

僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。


と、ここまで読んだら、

「あのね~。 わたし、丞持(じょーじ)のこと、スキ、ちゃうから~」

もあり得る。アマノジャクな面があるから。


僕は、そんなゆかりちゃんも、大好きなのだ。




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