占領風味のエルサレム1:エルサレムの空気入りカアク
「違うんだよ、味が」。
目の前の、横髪を短く刈り込んだ「今風」のおしゃれな青年が遠い目でつぶやく。彼が立っているのは、これまたおしゃれなカフェ・カウンターの中だ。
アメリカはシアトル発、日本でも人気を誇る某有名コーヒーチェーンの「ベツレヘム店」。とはいえライセンスの有無は怪しいもので、張り出されたメニューも、棚に並ぶグッズも、私が横浜のお店で見るものとはまるで違う。張り紙には「サハラブあります」なんて書いてあるけれど、植物の根の粉末をとろりと甘く煮詰めた中東独自のあの白い飲み物に、私は日本のメニューでついぞお目にかかったことがない。
「とにかく、同じにならないんだよ」と、20歳のイブラヒームは先ほどの一言と同じ趣旨を繰り返す。彼が指しているのは、本場シアトルとベツレヘムのコーヒーのことではなく、「カアク」のことだ。白ゴマをたっぷりまぶした、巨大なパン。ドーナツを限界まで横に引き伸ばしたような形をしていて、ザアタルという塩入りタイムの粉末をつけて食べる、ほのかに甘いスカスカのパン。そしてこのパンは、エルサレム旧市街あたりの名物なのだ。
「そんなこと、あるわけないよ」と、紙コップに入った熱々のカフェラテをすすりながら私は言い返す。ここに寄ったのは仕事のついでで、度々立ち寄るのでカフェ店員の青年とは顔見知りだ。世間話をしているうちに私が住むエルサレムの話になり、そこでカアクの話が出てきたのだった。イブラヒーム曰く、カアクはエルサレムでしか作れないらしい。
「本当なんだよ。カアクが美味しいから、ベツレヘムにエルサレムのパン職人を呼んできて、ここで作らせたんだ。同じ材料、同じレシピ、同じ職人だよ。でも、どうしてもカアクは同じ味にはならない。カアクはエルサレムで作らないと、美味しくないんだってさ」。だから今度エルサレムから来る時は土産に持ってきてくれよな、と彼は笑う。
高く売れるかもね、なんて私も笑いながら、ここから10kmと離れていないエルサレムのことを思う。国際社会が認める地図の上では、エルサレムはベツレヘムと地続きで、間に国境線があるわけでもなく、彼が暮らすパレスチナ自治区の一部を成している。歩いてだって、行けるかもしれない距離だ。それでも20歳の彼は、いくら願ってもエルサレムに足を運ぶことができない。
イスラーム教の聖地であるアル=アクサー・モスク、キリストの墓所や、ユダヤ教の神殿遺跡の一部が詰まったエルサレム旧市街は、世界の多くの人々にとって憧れの場所だ。
それが、1948年の第一次中東戦争ではヨルダンのものになり、1967年の第三次中東戦争ではイスラエルが武力で勝ち取ってしまった。軍事力をもって併合され、今はイスラエルが実効支配するエルサレム。この「夢の都市」とパレスチナ人たちとのあいだを隔てるように、2000年代以降はイスラエル当局が高さ8メートルの「分離壁」を建て続けている。
その理由は「物理的にパレスチナ人の流れを止めなければ、テロを防げずイスラエルが危険だから」とされているけれど、パレスチナ人から見れば「封じ込め」だ。武闘派だろうが穏健派だろうが、大人だろうが子どもだろうが、西岸地区のパレスチナ人はみんな同じ扱いになる。イスラエル当局の許可を取らなければ壁を越えられず、イスラエルが管理するエルサレムに出て行くことはできない。私のようなヨソモノの日本人は観光や仕事のために当たり前のように壁を通り抜けられても、地元のパレスチナ人たちにはモスクで祈りを捧げるための訪問すら簡単には許されない。エルサレムは、そういう場所だ。
時計を見て、「そろそろ事務所に戻るよ」と私はカップを取り上げた。分離壁を越え、街や村を好きなように行き来する「外国人」の私に、イブラヒームは「また来いよ」とはにかんだ笑顔を向ける。目の前の人間が享受する特別な立場への妬みも、大きな力に自由を奪われた怒りも見えない、大きな優しい目。20年、多感な思春期のあいだも、激動したに違いない感情の波をちらりと想像する。何かを秘めているはずの穏やかな顔を、私は笑顔で直視することができない。
ベツレヘムからエルサレムに向かう、帰りのバスに乗り込む。分離壁の間に設けられた検問所で、パレスチナ人たちが降ろされ、身体とIDカード、許可証の有無をチェックされるのを、外国人の私はバスの高い窓から眺める。何人かの青年はバスに乗れぬまま、検問所でイスラエルの兵士に囲まれている。治安を乱す人間かどうか、交友関係や服の中まで細かくチェックするのだろう。彼らを残したまま、バスは当たり前のように発車する。
半刻ののち、私はエルサレムに着く。ほこりっぽいバス通りでは、手押し車に山と積まれたカアクを見かける。
水気の少ない、スカスカのパン。たまに食べかけのまま通りに捨てられている、何の変哲も無いパン。それでも、聖地の空気をたっぷりと含んだこのパンが、誰かにとっては夢の食べ物だ。エルサレムで食べるカアクは、他のどこのパンとも同じになり得ない、自由を味わえるパンなのだ。
そう思ったら、なんだか気軽にカアクを買ってはいけないような気がした。カアクをエルサレムで買ってベツレヘムへ運んでも、同じ味はしないのかもしれない。