維摩VS善徳長者
持世菩薩にも維摩への見舞いを辞退された釈迦は、次に善徳長者に指示を出した。
善徳長者は在家の長者で、大金持ちの子息だった。
しかし、善徳長者も、維摩への見舞いを辞退すると言う。
「昔のことになりますが」
「父の家で、沙門、婆羅門、外道、貧民、乞食など、あらゆる人に対して、七日間の大きな供養の会を開いたのです」
「そうしたら、維摩さんがやって来て言うんです」
『あんたね、こんなことをしても、全く意味はないよ』
『財だけ、ばらまいたところで、役には立たない』
「私は驚きました」
「貧民に財を施すことは、金持ちとして当然の責務と思ていましたから」
「それだから、私は維摩さんに聞いたんです」
「どうしたらいいのですかと」
すると維摩さんは答えました。
『財を与えることは、一時には出来ないのさ』
『早く貰いに来た人は前になって、遅れて来た人は後になる』
『それに対して、法施というものがあって』
『それは、一時に一切の人々に対して、施すことが出来る』
『財なんてものは、いつかは尽きるし、心まで救えるほどの力はない』
『心のあり方を教える法施は、尽きることもなく、心を救う』
『慈悲喜捨、布施、自戒、任辱、精進、禅定、知恵』
『そういう心のあり方を教えるのが、法施ということ』
かの古代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウスの言葉に、
「貧乏であることは罪ではない、貧乏から脱却しようとしない気持が罪なのである」というものがある。
貧民に対して、お金をただばらまいたとしても、一時の救済にしかならない。
それよりも、その貧しい状況から脱却する方法、心のあり方を示唆しなければ、国家の財産とて、いつかは尽きる。
「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」
これはイエスの言葉。
つまり、人の心はパン(金)では買えない。
神の口から出る一つ一つの言葉(善処しようとする心の持ち方)によって、生きる。
そんな意味にも通じるような、維摩の教えと捉えている。