維摩VS文殊菩薩(8)
維摩の答えに納得できない文殊菩薩は、さらに尋ねた。
「維摩さん、それでは外道の六十二見は何によって求めるのでしょうか」
維摩は答えた。
「諸仏の解脱の中に求めます」
文殊菩薩は、まだ理解が出来ない。
「諸仏の解脱は、何に求めるのですか?」
維摩は答えた。
「全ての人々の心の動きの中にこそ、求めるべきなのです」
難解を極め、気が遠くなるような長い間の仏道修行など、全ての人々が出来るわけがない。
そんなことが出来るのは、暇でお布施を一般庶民からむしり取るだけの坊主だけ。
毎日適当に役にも立たない経を読み、座禅と称して居眠り三昧、お布施だけは恐喝気味に没収するから生活には困らない。
そんな坊主たちが、解脱したからといって、何の真実味があるのか、ありはしない。
維摩は、優秀で解脱していると自負する文殊菩薩に、強烈な答えを突き付ける。
「仏道ではない、外道の見解の中に大いなる空がある」
「揺れ動く一般庶民の心の中にこそ、心の平安を求めるように、心の平安を与えるように、仏を目指す菩薩は努力するべきではないのか」
「悩む苦しむ人々の中に飛び込んで、人々を救おうとするのが、本当の仏道であり、菩薩の行ではないのか」
「汚れた場所だから、心の平安は得られないと言うのなら、何故、そこに飛び込んで救おうとしないのか」
「それが出来て、初めて諸仏の解脱ではないのか」
僧侶の集まりがあるからと言って、豪華絢爛な袈裟を作り、その代金を檀家に「当然のように」請求する僧侶たち。
檀家の駐車場は、コンクリート舗装もせず、雨になれば檀家の車は泥まみれ。
さて、本堂隣の庫裏の前の、きれいにコンクリート舗装された駐車場には、僧侶の1千万クラスの磨き上げられた外車が5台も6台も。
こんな僧侶たちを維摩が見たら、何と言うだろう。