第一段 いでや、この世に生まれては(2)
(原文)
法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。
「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。
いきほひまうにののしりたるにつけて、いみじとはみえず、僧賀ひじりの言ひけんやうに、名聞くるしく、仏の御教にたがふらんとぞおぼゆる。
ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
(舞夢訳)
さて、法師ほど羨ましくない者はいない。
「他人からは、木の葉のように軽々しく思われている」と、清少納言が書いているのも、実にもっともなことである。
ただ、そうかと言って、羽振りが良くなって、世間の評判も高くなったとしても、そんなことは素晴らしいこととは思えない。
増賀聖が述べた通り、出家者にとって、そんな名声はどは無用の縛りであって、御仏の教えなどとは無関係で、かえって背くものだと思う。
だから、そんな「ご立派な法師様」より、世間のことなど全く超越して、仏道修行にひたすら励む世捨て人のほうが、まだ、まともなものを持っているのだと思う。
※増賀ひじり:増賀上人。比叡山天台座主良源の弟子であったけれど、名声や利得を嫌い、多武峰に隠棲した。
そもそも、仏僧は、この世の名声や金銭などは無用のはず。
しかし、どういうわけか、そんな煩悩に囚われている僧侶が多い。
それだったら、深山幽谷に籠って修行している僧侶のほうが、世間一般には高額なお布施を迫ることもなく、無害なのではないか。
これについては、まったく同感。
「お寺への献金額の多さが、来世や先祖の幸福」と、ほぼ恐喝並みに、押し付けてくる菩提寺の、なんと多いことか。
その理論が正しいのなら、貧乏人などは、死んでも惨めな扱いになる。
そんな教えを、釈迦は説いたのだろうか。
(参考)「人には木の端のやうに思はるるよ」:枕草子
思はん子を法師になしたらんこそ、心苦しけれ。
ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。
精進物のあしきをうち食ひ、い寐ぬるをも。
若きは物もゆかしからん。
女などのある所をも、などか忌みたるやうに、さしのぞかずもあらん。
それをも安からずいふ。
まいて驗者などのかたは、いと苦しげなめり。
困じてうち眠れば、「ねぶりをのみして」など、とがむるも、いと所せく、いかにおぼゆらん。
これは昔のことなり。今はいとやすげなり。
(訳)
愛おしい子供を、法師としたのは、本当にお気の毒です。
世間の人から、法師などは、ただの木の端かのように軽くて人間扱いされていないことなど、本当に可哀そうなことです。
精進物とか言って、美味しくもないものを食べ寝ることさえ、あれこれと批判されます。
若い人なら、好奇心だってあるでしょうに。
女性たちが集まっているところを、どうして忌み嫌ったかのように、何にも顔を出さないでいられるのでしょうか。
それだって、世間の人は、とんでもないと、非難しますが。
増して、修験者なんて、本当に苦しそうです。
加持祈祷に疲れ、ついうとうとすれば「居眠りばかり」と非難され、特に法師は、窮屈で、つくづく辛そうです。
もっとも、昔の話で、今はお気楽みたいです。