維摩VS文殊菩薩(6)

文殊菩薩は、維摩の答えを理解できなかった。
そこで、再び尋ねた。
「空とは分別が出来るものでしょうか」

それに対して維摩は、答えた。
「分別することも空なのです」

分別とは区別すること。
好きか嫌いか、善と悪かなどを、対立させて区別、判断を示すことである。

さて、一切のものが、有でも無でもなく、ただ因縁によって生じているとすれば、空も因縁によって生じたが故に、空となる。
もともと、分別は、妄想のような色眼鏡に過ぎないけれど、その分別自体が因縁から生じている。
その原因と条件がなくなれば、それも、空に他ならないのである。

もともとが空、仏の教えがあろうがなかろうが空、たまたま因縁により何かが生じているけれど、その原因と条件がなくなれば、また空に戻る。
つまり、この世界の一時的な変遷は、空の一時的な変形に過ぎなく、本質は全く変わらない。

さて、人間は生きている限り、分別の苦しみに包まれて生きる。
それが宿業とも言える。
しかし、その苦しみも、本来は分別をするからの苦労になる。
楽しいと思う、辛いと思う、それゆえに考えに混乱が生じる。
ただ、何も考えなければ、それが当たり前とも考えなければ、一切は空になる。

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