伝道者の書第13話わたしは笑いについて言った
(原文:第2章2)
わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
かなり難しい解釈が要求される文だと思う。
「笑い」が何故、「狂気」となるのか。
さて、笑って、何が悪いのか、何が問題なのか。
「快楽」が「何をするのか」とは、英語版では
"What does it accomplish?"
※accomplishは、「ある特定の仕事・目標などを努力を払って完成・達成する」
つまり、「快楽は何を成し遂げるのか」の意味になる。
確かに「一時の快楽」は、その時点で終わるけれど、「気持ちをリラックスさせる効果があるのではないか、それを成し遂げるのではないか」という反論もある。
その意味において。
「快楽」は否定されるべきものなのだろうか。
「快楽」を味わい、何が悪いのだろうか。
しかし、こうも考える。
自分自身が「他者からの笑いの対象」になってしまった場合。
嘲笑され、傷つくこともあるではないか。
ソロモン王の時代とて、戦争、飢餓を含めて、奴隷制度は厳然と存在していた。
また階級制度しかり、人が人を、その生まれ、身分によって、程度の低いものとみなし、嗤い、嘲笑の対象とする。
自分自身が「他者からの快楽の対象」になってしまった場合。
一時の快楽の対象にされ、傷つくことがあるではないか。
そして、他者を虐待して、自らの快楽を求める、そんな事例は歴史に数多くある。
浅く考えれば、「笑い」も「快楽」も、否定されるべきものではない。
しかし、より深く考えれば、「笑い」も「快楽」も、「他者への配慮を欠く」ことにより、無神経に他者を傷つけ、また傷つけられていることが、あるのではないだろうか。
「笑い」も「快楽」も、他者の悲哀と血の痛みの上に成り立っているのならば、確かに狂気とも思え、双方の心の中に深い喜びなどは、起こりようがない。