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健さん(3)
あまりの惨状に言葉を失っていた佐藤良夫は、心を懸命に静め、圭子に問いただす。
「医者は、とりあえずこちらで呼びます」
「すぐ近くの懇意の高橋先生、圭子さんもお知りと思いますが」
「救急車も高橋先生の判断で」
「その前に圭子さん、もし事情をお知りなら、お話願えないでしょうか」
良夫の言葉で、圭子も頷く。
ひとみは早速、廊下に出て、スマホで高橋医師に電話をかけている。
圭子は、健に目をやり、話し始めた。
「ご存知の通り、私は近くの吉祥亭の若女将」
「と言っても、一人娘なので、後を継いでいるだけ」
「夫も付き合っている人もいません」
ひとみが、高橋医師と連絡がついたらしい。
「すぐこちらに向かうとのこと、およそ15分ぐらい、動かさないでとか」
と言いながら、再び部屋に入って来た。
圭子は続けた。
「ところが・・・大手資本のレストランチェーンの方が、半年前くらいから頻繁に来られるようになり」
「料亭をやめて、ファミレスにしろと、それはもうしつこく」
「当然、両親、つまり吉祥亭の経営者としては、拒否」
「地元の皆様のご愛顧で、そこそこの黒字経営、困っているわけではないので」
良夫は、圭子の事情を少し察した。
「そうしますと、その大手資本の方とのトラブルで?」
圭子は、麗の顔を少し見て、続ける。
「つい、二、三週間前から、尾行をされています」
「SNSで変なことを書かれたこともあります、誹謗中傷と言うのでしょうか」
「あまり気にするお客様もいないので、こちらも対応はしなかったのですが」
圭子は、ここで唇を一旦、キュッと結ぶ。
そして健に頭を下げて、話し出す。
「昨日の夜10時過ぎ、私が料亭を出て、家に戻ろうとした時のこと」
「目つきが悪い男たち、数人に囲まれまして」
「もう怖くて・・・必死に走って逃げて、そこの佃大橋の階段のところまで」
ひとみが、圭子の顔を見た。
「そこに・・・もしかして健さんが?」
圭子の目から、涙があふれ出す。
「はい・・・健君は、ただの通りすがりでした」
「私の前に、急に立ってくれて・・・手を大きく広げて」
良夫は、大体を察した。
「そこで健君が、身を張って、圭子さんを守ったと?」
圭子は健の血がこびりついた髪の毛を、少し撫でる。
「私には逃げろって大声を出して・・・実際逃げることが出来て」
「しかし、逃げ続けることも出来なくて、物陰に隠れて見ていました」
「でも、さすがの健君も多勢に無勢、相手はナイフとか手にしていましたし」
良夫は、健が、なぜ助かったのかが不明。
「健君は確か空手は四段、しかし多勢に無勢では殺されても仕方ない状況と」
圭子は、頷く。
「運よく、酒に酔った5,6人の男性が通りかかって、私を襲って来た連中も、それを見て、すぐに逃げました」
「通報でもされるかと心配になったのかもしれません」
良夫
「その大手資本の配下のチンピラかな、脅すだけ脅して、ファミレス買収に結びつける」
「でも、圭子さんの命も、確かに危なかった」
圭子
「私はあの連中がいなくなったので、さっそく健君のところに戻ったんです」
「酷い怪我でしたので、救急車を呼ぶって」
「でも健君は、弱い声でしたが、絶対にそれだけはしないでと」
「理由を聞いたら、今は夜、ご近所に迷惑がかかるって」
「もうどうしようもなくて、両親に車を回してもらって、家で医者を呼ぼうかと」
「10分ぐらいで、親が車で駆けつけて来て、その車を誘導しようと目を離したら」
「健君は、ヨロヨロと立ち上がって、佃の夜の闇に紛れて・・・細い路地が多くて」
ひとみが、圭子に尋ねた。
「圭子さん、健さんを以前にお知りで?」
圭子は良夫の顔を見た。
「一度、佐藤先生の学会の忘年会で、吉祥亭をご利用された際に、健君が事務局で」
「ただ、私も健君の住所までは知らなくて」
そして、鞄から男物の免許証入れを取り出す。
「健君は痛みが酷かったのか、倒れていた所に免許証を忘れて行って、それで住所を」
アパート玄関のチャイム音が鳴った。
どうや高橋医師が到着したらしい。