おまけ探しの旅
教育業界に転職して8年目を迎える。
小さい頃から「教師」という職業に猛烈に憧れを抱いていた。その気持ちに蓋をしたまま人生を歩むことはできないと一念発起し、社会人になってから教員免許を取得した。
取得したのはいいが「教師」になることに
いまいち踏ん切りがつかずにいた。
それは、教育実習が1番の原因かもしれない。
自分が知っている教育現場とあまりにも違っていたこと、そして憧れるがあまりに自分の中で理想とする教師像が大きくなっていた。
心の奥にあるつっかえ棒がとれないまま、身動きがとれない状態が続いた。
その状況を変えるきっかけになったのが当時働いていた職場の先輩との出会いである。(当時の私は大学の研究室で助手を勤めていた。)
彼女の学生への「関わり方」や「佇まい」に惹かれていき、心の奥にあったつっかえ棒が少し揺らぎ始めた。
そしてもうひとつ、悩んでいたわたしに大きく影響を与えてくれたものがある。
当時何気なくとった本との出会いだ。その本は「孔子の教え」について書かれたものだった。
その本の中に「自らを限るもの」という一説がある。孔子の弟子、冉求は孔子の教えに自分の力が足りないと思い悩んでおり、その様子を見取った孔子が冉求にかけた言葉がある。
「力の足りないものは中途でたおれる。たおれてはじめて力がたりなかったことが証明されるのじゃ。倒れもしないうちから自分の力の足りないことを予定するのは天に対する冒とくじゃ。それといっても、まだ心からおまえ自身の力を否定しているわけではない。おまえはそんなことをいってわしに弁解するとともにおまえ自身に弁解しているのじゃ。それがいけない。…
それというのは、お前の求道心がまだ本当に燃え上がっていないからじゃ。本当に求道心が燃えておれば自他におもねる心を焼き尽くして素朴な心にかえることができる。素朴な心こそ仁に近づく最善の道だ。道がたりないといってへこむのはまだ思いようが足りないからじゃ。
はっはっは。」
当時の私はまさに冉求だった。
その言葉に触れた瞬間…
私の魂は震えあがった…
混沌とした暗がりの中に一筋の光が宿ったのだ。
大学助手の任期を1年残し、挑戦するなら早い方が良いと思った私は2019年の春、教壇に立った。
やっとあの夢の場所に、決意して教壇に立った。
入職してからの3か月、私は今までにないほど働いた。朝7時半前には学校に行き、帰りは22時を超えるときもあった。
土日はほとんど授業準備でつぶれていった。
働きすぎた・・・・。
身も心もすり減らすように…
3か月という期間が1年以上にも感じられるほど濃くて密度の多い日々だった。
そして私は、、、
学校に行けなくなった。
突然、心の空気がしぼんでしまった。
いや、しぼんでいったというより
気づかぬうちにぱんぱんに膨れていった風船がある日突然破裂したのだ。
なんの序章も前触れもなく、突然身動きがとれなくなった。抜け殻のようになった私の目からただ涙がこぼれ落ちるだけだった。
回復するのに8か月は要した。
空白の時間だった
空白のなかで「働くとはなにか」を考えた
そしてたどり着いた答えはごくあたりまえのことだった。
「自分自身と自分の周りの人を大切にしたい」
「教師」という仕事に未練はなかった。
やれなかったこともやりきれなかったこともあるが、心の奥底にあったつっかえ棒は驚くほど綺麗に消えていた…
2020年春、9か月ほどのブランクを経て私は社会復帰した。今は大学の職員として日々、大学の先生や学生のために働いている。初めての事務職で戸惑うこともあるが、自分や周りの人を大切にしながら働いている。
働き始めて落ち着いた頃、以前共に働いていた大学の先生に会う機会があった。定年を迎えたその先生は車を運転しながら後部座席の私にそっとやさしい言葉を放った。
「一歩ずつ、一歩ずつよ。生活できるお金があれば、それ以外あとはおまけみたいなものよ。」
その言葉は私の心の奥底に深く強く響いたー。
自分が何をしたいのかどう働きたいのか正直わからない。でも、今も昔もその問いを心に持ち続け働いている。
自分とまわりの人を大切にしながら。
そして往生際の悪い私は先生の言ったおまけみたいなものをこれからも探し続けるのだろうと思う。