バスケ河村選手 恩師の教えを糧にして
今や世界からの注目を集め、FIBAからもパリ五輪でブレイクした選手の一人に選ばれた河村選手。横浜ビーコルセアーズの試合では何度も横浜国際プールに足を運び、沖縄のオールスター、有明での日本代表、そして彼の地元、山口県柳井市のパブリックビューイングでオリンピックを応援した筆者としては、遠くへと挑戦の航海へ挑む河村選手を、まぶしく嬉しく、そして切ない気持ちで見守ろうとしている。
そんな河村選手を、節目節目で導き、指導し、見守ってきた師たちは、想像しがたいほどの特別な思いで、見送ろうとしているのだろう。
柳井の小学校時代のミニバスで、当時指導していた森本敏史さんへのインタビュー記事を読んだ。
オリンピック前の強化試合韓国戦でも、河村選手が猛然とボールにくらいついた姿は記憶に新しい。ボールを死守したままコートにあお向けに転がり、相手にチェックされてしまったからなのか、バックコートバイオレーションになったからなのか、悔しそうに顔をしかめ、手でコートを叩いた河村選手。
森本さんの教えのことを後から知り、こういうことなのかと思った。
福岡第一高校の恩師、井手口隆監督。河村選手を怒ったことはほぼなかったと語る監督だったが、その監督が2回だけ怒ったことがあるそうだ。そのうちの1回が、日本代表の練習から帰った河村選手が、不在の間にチームメイトが練習していたフォームを見て、「分からない」と手を広げてオーバーアクションをした時だそうだ。「チケットやるから東京帰れ!」と泣くまで怒ったという。
誰よりも努力家で、誰よりも仲間思いの河村選手も、この時まだ10代半ば。少しくらい「日本代表」を出したい気持ちも分かる。それでもこの時、チームがあるからこそ、自分の活躍がある、という井手口監督の教えを胸に刻んだのではないか。決しておごらず、謙虚に努力し続け、周りに感謝し、またポイントガードとして自分のスタッツより仲間を活かすこと、チームを勝たせること、そしてここぞという時に自分が動く、そんなスタイルを持つ原点の一つに、間違いなくなっているであろうと思われる。
どちらの恩師も、じっと試合を見守っていると、かつての教え子のコンディション、気持ちが手に取るように分かるようだった。
足元にも及ばない筆者だが、少しうらやましいと思った。
そして、ホーバスHC。「打たないならもう使わない」と河村選手をベンチに下げた話はあまりにも有名だ。
河村選手は、ホーバスHCからの言葉をすっと受け止め、その後すぐに3ポイントシュートを打ったというから驚きだ。
今の時代、怒られることに打たれ弱い若い人も多い。河村選手も、少しくらいは反発心もあったかもしれない。なぜ自分がそんなことを言われるんだ、とも思ったかもしれない。そんな中で、指導者の本当の意図と愛情に気付き、自分の行動をすっと改め、自分の糧にできることがどれだけ偉大なことか。できそうでなかなかできるものではない。でも、彼は証明してくれている。愛のある叱責は、素直に受け止めることによって、とてつもない自分の成長へとつなげることができるのだと。
すばらしい恩師に恵まれてきた河村選手だが、ただラッキーだっただけではなかったはずだ。
さまざまな方面で、神業をやってのけてしまう若干23歳の努力の天才に、これからも興味深々だ。
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