原爆と広島は世界で感じたい。市民と元海兵隊員の悲しみを超えた物語。
広島への原爆投下は1945年の8月6日。この写真がすべてを物語る。もう永遠に雑草も生えないかもしれないといわれた。
広島カープ。被災した市民に何か希望を、という思いから市民の募金で出きた球団である。
万年最下位のカープに昭和50年、アメリカから赤鬼と呼ばれた監督が広島の監督に就任した。
そこから始まる物語である。
まさに鬼だった。
ところで激しい気性と言われていたにしても、来日から猛烈な特訓そして怒声であまりに過激だった。選手はあまりの激しさに音を上げた。
彼は狂っていないか、やりすぎでは?
そういう声は大きくなっていった。
ルーツ夫人は赤鬼ルーツに 激しすぎる、という声に耳を傾けるべきだ。と忠告した。
その時。
ルーツは初めて長年連れ添った妻に言わなかったあることを教えた。
共に海兵隊にいた無二の親友を日本との激戦で太平洋で亡くしたんだ、と。
今まで一度も打ち明けなかったのは語りだしたら感情が抑えられなくなるからだ、とも。
日本が好きなのか?といえばもちろん好きではない。
しかしこうして日本に来ることになったルーツはある思いを抱くに至る。
原爆が落ちたこの広島で市民ととともに肩を組んで心から笑いあったとき、その時、自分の戦争は、親友を永遠に連れ去った戦争は終わる。
わかったならいわないでくれ と。
だから俺は真剣なんだ必死なんだと心配する夫人に語った。
そしてその年。
広島カープは前年の最下位から優勝した。
その瞬間。感激したファンはグランドにおり、ともに胴上げに加わった。
シーズン途中から交代した古葉監督を胴上げしたのはグラウンドになだれ込んだファンだった。
そして優勝パレードは凄い光景が現れた。今までになった光景が無数に。
被爆者なのか、この日を待ち望んでかなわなかった故人の遺影がパレードに無数に向けられたのである。この時を見せたかったという遺族の思いが多くの遺影として掲げられた。
市民の、そして元海兵隊員の戦後は、この瞬間終わった。
途中再生 開始二分で何が起きたかわかる。こんな凄い優勝シーンはないだろう。
主砲の山本浩二さんは広島育ちだ。少年のころ、外野席の外に生えている大木に上り試合を見ていたという。「わしがカープを優勝させるんじゃ」。それか夢だった。原爆投下の三か月後に誕生し、周りは原爆の後遺症の人たちでいっぱいの中で育つ。
歓喜の瞬間、三塁側ベンチ前から始まった歓喜の渦は市民と選手入り乱れて一塁側へ押し流されていった。主軸のインタビューが拾いたいのに山本浩二さんは泣きじゃくり言葉がでない。一塁側で拾った声はたった一言絞り出すように小さく、「嬉しい。」そんな優勝インタビューだった。泣いてばかりで声が出なかった。
やがて、泣きじゃくる浩二さんは市民の歓喜の胴上げの渦の中に飲み込まれていった。
ルーツ監督は例によって激しすぎたため、シーズン開始早々に審判団と喧嘩となった。仲裁も不調となり仕方なく解任となりましたが、優勝の報告にこう答えたとのこと。
アメリカで優勝の報告を受け
「当然だよ おれがなんどもいってたことさ。勝てる、勝てるから信じてやってみろ、そういい続けただろう?」
ほほ笑んでいらしたそうです。
ありがとうございました <(_ _)>
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優勝パレードには全市民が集まった。
驚くべきことが起きた。カープの選手は驚いた。
手を振る古葉監督以下、選手に向けて市民が無数の遺影を掲げていたのである。
それは一度、優勝パレードを見たいといい続けていた方の無数の遺影だった。
fin
※追伸
岸田前総理が先頭を歩き、なだたるVIPはそのあとを言われたままについていく。凄い岸田さんの気迫でした。
この優しそうな岸田さんのお顔
(あなたの思いは骨身で理解しています)
ですね。