デジタル・クローンを前に考える
2020年9月から半年間、科学技術振興機構の助成を受けて、『技術死生学プロジェクト』と名付けた超領域の研究プロジェクトを行いました。 科学技術と、私たちの生き死には、これまでどのように関わってきたのか、そしてこれから関わっていくのか、ということについて、人文系の研究者や芸術家も含めた多様な専門を持つメンバーと考えることを目指すプロジェクトでした。私自身は、科学技術と人の身体の関係性に関心を持つ、人文系の研究者です。人の身体と関わる科学技術には、「この社会のなかで人の身体はどのようなものであるべきか」に関わる価値観が表れます。たとえば、身近な「メガネ」や「コンタクトレンズ」を例にとれば、そこには「視力を一定以上に保つこと」と「顔をどのように見せるか」を重視する私たちの社会のあり方、価値観が表れていることがということがわかります。科学技術に表れる社会の価値観に関心を持つものとして、「人の生き死に」に関わる科学技術は特に興味深い存在です。そこには、私たちが今生きている社会にある生と死に関する価値観、すなわち「死生観」が表れるからです。どのような死生観を持つ社会に自分は生きているのだろう?これは生きて死んでいく人間誰しもに関わりのある問いです。そんな人間にとっての普遍的な問いに自分の研究領域から触れることのできる機会は貴重です。さて、この問いを掘り下げようとする時、先端の科学技術に目を受けることが役に立ちます。というのも、先端の科学技術は、これまでの価値観を背景としながら、未知の価値観を作り出していく存在だからです。先端の科学技術は、過去と未来の中間に位置する、私たちの生の向かう先を考えるための基点となります。ここに展示されている(株)オルツ社のデジタル・クローンも、そうした基点として捉えることができます。
オルツ社のデジタル・クローンは、様々な応用可能性を秘める技術ですが、私がここで特に注目したいのは「自分のために働いてくれる」存在を生み出す可能性です。「働き方」は私たちの「生き方」に直結しています。現代の日本では、子どもも大人も、何らかの「仕事」に向かって生きていると言っても過言ではありません。「自分のために働いてくれる」デジタル・クローンは、この価値観を背景として登場しながら、「働き方」を変え、ひいては私たちの生き方を変える可能性を持っている。ここには何か考えるべきことがありそうです。
宣伝の動画を見ると、「デジタル・クローン」が可能にするのは、私たち自身の不完全な身体に頼らない「働き方」なのだということがわかります。これは大きな変化です。今のところ私たちの働き方は、自分の身体と完全に結びついているので、病めば病む前と同じように働くことはできません。これはごく当たり前のことだと思われていますが、不調の時を思い出せば、そうでなければどんなにいいかと思う気持ちが沸いてくるのではないでしょうか。
さてしかし、私たちは「仕事」に「日々の糧を得る」だけではない「人生にとっての意味」を求めます。「大人になったらどんな仕事をしたい?」という、よくある質問は、「あなたはどんな風に生きたいの?」ひいては「どんな人でありたいの?」という問いと同義です。デジタル・クローンが自分の代わりに仕事をしてくれるようになる時、つまり、私たちの仕事と体とが直結しなくなる時にも、この質問は今と同じ意味を持ち得るでしょうか?
一方で仕事をしている人なら誰しも、人生にとって意味ある仕事の中にも意味を疑う作業の含まれていることを知っています。オルツ社の宣伝動画に登場する二人にとっては、早朝に上司から送られてくる日程調整メールがそれに当たるのでしょう。共感します。そうした作業を全て代わってくれるというのなら、それは喜ばしいことかもしれません。不安定な体にとって、そうした作業こそ最も負担となるものですから。仕事が「私の体」を必要としないなら、死んだ後に仕事を続けることも可能です。しかし、そうした作業を一つ一つ取り除いていった後にも残るものは何だろう?ということもまた、考えておくべきかもしれません。たとえば私の場合なら、デジタル・クローンが最も理想的な状態の私なら書きそうな論文を書いてくれたとして、それは私にとって意味ある仕事となるのだろうか?ということです。そこへの誘惑は確かにありつつ、それを押しとどめるこの違和感の正体は何なのか。
さて二人の子どもを育てる母親でもある私にはもう一つ考えたいことがあります。それは、デジタル・クローンに子育てを代わってもらうことはできるだろうか、ということです。子育ては最も体に直結した仕事の一つです。子育ては日々の糧にはなりません。(それどころか糧を失う仕事です。)ですから、そこには人生にとっての意味しかない、ということになります。この「仕事」は、今でも積極的に他者と共有するよう推奨されています。この価値観に基づけば、デジタル・クローンに代わってもらうことに何の問題もないかもしれません。けれども、たとえば私の体が日々の糧になる「仕事」をしている最中に、デジタル・クローンが我が子と遊んでいる図を思い浮かべると、何だかモヤモヤしてしまうのです。それは「私」がしたい。ここには「私」と「デジタル・クローン」の間の境界線が表れているのではないでしょうか。さらに言えば、本当は今だってそれは「私」がしたいことなのです。
デジタル・クローンが働いてくれる時、私たちにとって仕事の意味はどう変わるだろう?
デジタル・クローンに代わってもらうべきでない「仕事」はあるだろうか?
デジタル・クローンに代わって欲しくない「仕事」はあるだろうか?
それはなぜだろうか?
デジタル・クローンを前に浮かぶ、こうした問いについて考えることで、私たちが今持っている「生き方」に関する価値観と、未来に求める「生き方」についての考えを深めることができると、私は思います。私たちの今を振り返り、よりよい未来へと繋げるために、デジタル・クローンとの「対話」を深めたいと思います。
(これは『きみとロボット展』でのオルツ社の展示に合わせて準備した文章です。掲示が遅れるということですので、こちらで先に公開させていただきます。:2022年3月18日)
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