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「○○か/その敵か」の二元論
『アドルフに告ぐ』(ナチスが題材の手塚マンガ)の残り3巻を読んで、話のしんどさにしばらくぐったりした。
1983年、イスラエル。1人の日本人男性がひっそりと墓地の一角に佇み、ある墓の前に花を供えた。彼の名は峠草平。40年前、3人の「アドルフ」に出会い、そしてその数奇な運命に立ち会うことになった彼は、全ての終わりを見届けた今、その記録を1冊の本として綴ろうとしていた。
この間夫とエンタメ作品のポリコレの話でちょっとピリピリしたときもそうだったけど、やっぱり「ポリコレ」とか「フェミ(ニスト)」とか、「ユダヤ」とか「アカ」とか、そういう短い単語一つで人をくくったり、それが「アリかナシか」という二元論で話をするのは本当によくないなと思った。
実際その概念や属性自体(とかその全員)に本当に問題があることなんてめったにない気がする。
その属性のどの部分に問題があると思っているのか、ちゃんと特定して具体的に喋らないと、属性間の対立とか相手側を憎む気持ちを増幅させるだけでなんの解決にもならない。
今のアメリカの分断もなかなかっぽいけど、ナチスはやっぱり比じゃない。ここまでのことが本当に起こるというのもそうだし、それを起こそうとした人がいたこと、それが本当にできてしまったことが怖すぎる。
夫が「ポリコレとかもうやめてほしい」的な発言をするたび、私と夫は対立しかける。
夫は言い方が雑すぎるし、私も夫に「ポリコレを嫌うタイプ≒インターネットの嫌なカルチャーに浸った人間」のレッテルを貼りそうになる。
詳しく聞いてみたら、ポリコレの名目で歴史的に間違った内容に改変されているゲーム作品があったり、過度なポリコレ的配慮でエンタメ作品としての面白さが損なわれているように見える映画作品が出てくるようになった、その風潮が嫌だということだった。(後者に関しては、本当にポリコレ的配慮のせいなのかはっきりしない)
マイノリティの存在自体に否定的な気持ちはなく、「ポリコレ」という概念も、あまり自分事としては想像できないもののそれ自体を強く否定する気持ちもなさそうだった。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す。「政治的正しさ」「政治的妥当性」などと訳される。なお、特に性別の差異を回避する表現をジェンダー・ニュートラル言語(英語版)と言う。またハリウッドなどでキャストやスタッフの多様性を確保するよう求める条項は包摂条項と言う。
やっぱり「ポリコレ」自体の問題ではなく、それを盾に何かしら個人的な要望などを過剰に通そうとすることを批判した方が正確なのに、そういう人が「ポリコレの先鋭」として語るせいもあり、「ポリコレ」自体に批判が向くのは本当に何の解決にもならなくてよくないなと思う。
世間への影響力が強い作品ほど、注目度が高い分「これまでのファンの声」と「これからあるべき形への期待」も大きいから、炎上しやすくて対応が難しいんだろうね、というぼんやりしたところで話が終わる。
わかりあえていないままなのか、距離は多少近づきつつあるのか、どうなんだろう。