メンタル不調とユーモア
最近けっこう暗い気持ちになる瞬間がちょこちょこある。人生に絶望するというか、あ、やばい、たまたま最近ラッキーだったから気をそらしていられたけど、人生ってこういう底のない不安があったわ、と思い出すことがある。寒くなってきたのもあるかもしれない。
小さいときは悲観的でよく泣いてたし、やっぱりそういうのが自分の素地というか基礎なのか、と思い出したりした。
最近しばらく大丈夫だったのは、人と住んでいることもあるだろうけど、ひたすら面白いコンテンツを流していられるようになったことで気を紛らわすことができるのもあるかもしれない。
疲れたときにオモコロの動画をひたすら流してしまうことも、何にもならないのにいったい何時間このコンテンツを浴びてるんだと思ってきたけど、もうこれほどなんだから私には意義のあることなんだろうし、自分のアイデンティティとして大切にしようと思うようにした。
原宿さんの口ファーストノートは、これさえ見れば考え込みすぎてしんどくなったときでも一回笑えるだろうなと思えるほどハマっている。
何か嫌なことに遭遇したときは、中川家だったらこれをどうネタにするんだろう、と考えればいいかもしれない。
夫との旅行のストレスも、おばちゃん姿の中川家が代弁してくれたらと想像するともう笑える。
そもそもなんでおばちゃんの”てい”を借りると面白いんだろう。単におばちゃんが喋るだけで常に面白いわけではない。「似せるのがうまい」ことが面白いのか、法則とかルールが見えるのが面白いのか。「あるある」ってことか。なんであるあるは面白いんだ?共感できることが嬉しいだけじゃなく面白いのってなんで?しかも、そのあるあるを知らなくても面白いこともあるし謎すぎる。「(うまく)演じてる」こと自体がそもそも面白いのか?なんで?
こういうことを真面目に分析した本が存在するのは知ってるからたぶん読めばわかることだけど、なんか読んだら何も考えずに笑うことができなりそうで怖いから、気になるけど考えたり調べたりするのはやめよう。
あほらしいようだけど、それで気分が急に変わるんだから、ユーモアって本当にすごいものだ。
ツイッターの「~~の○○の部分」とかってなんなんだろと思ってたけど、ユーモアの簡単に遊べる型としてはいいのかな、と納得したりした。そういう簡単な遊びをする習慣を私もつけたい。
そんな真面目に考える時点で何かが違うのかもしれないけど、私はそういう人なんだからもうしょうがない。
他地方出身の人が「大阪人のなんでも笑いに変える力ってすごいよね」と言っていた時はピンとこなかったし、実際そういう能力がある人は場所に関係なくいると思うけど、笑いに変える能力って真面目に考えるとけっこうすごいことだ。
私は大阪育ちなのにそのあたりまったく大阪人らしく育っていないけど、確かに面白さを最優先に感じていた時期もあった。
その後真面目さとかが一番自分にとって大事な部分だと思うようになってあまり優先しなくなっていたけど、それだとけっこうしんどくなる時もある。それでお笑いの動画で息抜きをしたりする。
思えばそういうものを見たいという気持ちが全くない人が現に友達にもいたりするから、誰もがお笑いを求めてるわけじゃないとなると、私が単にしょうもない暇つぶしと思っていたのは、人から見れば「お笑いを求めてる」ことになるのか。
このくらいは当たり前だと思っていたけど、そういう人からすれば私は「お笑いが好きな人」で、私にとってお笑いはわりと大事なことなのかもしれない。
人間が一番幸せを感じられるのは、同じ価値観を共有できる人間関係があるとき、と何かで聞いた。
思えばオモコロも中川家も、同じ面白さを共有できることが楽しくてしょうがなさそうで、そういうところも見ていたくなる理由の大きな一つな気がする。
幸い真面目な話を共有できる友人に恵まれて今私はすでにだいぶ幸せだけど、同じしょうもないものを楽しめる友達ももっと増えたら、別の方向からメンタルが安定しそうだ。
自分のそういう側面を最近ずっとほっておいてたなと思う。大事にしてあげよう。