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ぐるぐる考えていたこと

今日も嫌な気分になる怖い夢を見たし、起きてからもわりと覚えていた。友達グループでルームシェアをすることになって、「人数も多いし、最初にある程度ルールを話し合っとかないと後で大変だよ」という意見を全然聞いてもらえず、案の定すぐにもめ事が起こって早々に解散が決まって、お金の持ち逃げや奪い合いが起こってしまう夢だった。現実には絶対そんなことにならない子たちの見たくない姿を見てしまって、すごく嫌な気持ちだった。

嫌な夢が続いてるのは寒いせいなんだろうか、と言ったら、何か気持ちが焦ってるとかあるんちゃうと夫に言われて、それもすごく思い当たる。実際寝る前にそういうことを考えている。
「夢日記でも書いたら」と言われて、記録に残したくないわと返したけど、こうして書いてみるとそんな夢を見るなんてかわいそうでかわいいなと思えてくる。やっぱり書くことで癒やされるというのはあるな。


お笑いを好きと自覚したのはいいけど、やっぱり「無限にだらだら見る」のはやめようと思う。どうすればできるだろうか。
まずやめるべきは「ホーム画面やショート動画の無限スクロール」か。
検索して見たいものを見るのはまだ積極的な行為だけど、無限スクロール(+無限再生)は受け身で惰性だし、ただの依存症という感じがする。
やっぱり「無限に」出てくるというのが諸悪の根源だ。甥っ子たちがアニメ視聴をやめられないのも、配信サービスという「無限視聴」が可能な媒体で見ているからだろう。そう思うと改めて、なんて恐ろしいサービスなんだ。有害すぎる。
私だったらリモコンを見つからないところに隠して、一日泣き叫ぶ子供を無視してでも言うことを聞かせようとするだろうなと思った。それだけだとリモコンを探してそこらじゅうひっくりされそうな気もするから、目の前で捨てるかぶち壊すかまでしないといけないかもしれない。

「無限=麻薬」レベルで認識しないと、ずっとこのままいってしまう気がする。夫にタバコをやめさせたのと同じ感覚で、私も本気で取り組まないと。
「1回だけ」のつもりで抜けられなくなるあたり、他の依存症と全く同じだ。健康も害してるし。
社寺でお参りするときに祈ることの中に入れるレベルで意識していこう、と思ったけど、書いてみるとぬるい対処に思える。
依存症の人が取り組む「したい気持ちを抑えることを毎日ひたすら積み上げる」ということの大変さが、無限スクロール中毒で考えるとものすごく理解できる。
疲れてるときは特に、抜け出すのが本当に難しい。でも「麻薬」だから、もう本当にやめるんだぞ。せめて、見たいものを検索して選んで、一つ見るごとにかみしめる時間を作れ。


この間ノートで見た、「魅力的な人は、自分の特性をよく理解し、過大評価も卑下もせず受け入れている」という言葉が頭の隅に残っていて、何度も思い出す。
私は日記の文面にも、自分の特性をよくないと思っている気持ちがにじみ出ている感じがあって、自分でそれもなんか嫌だなと思うときがあるから、そうだよな、こういうのを見てあんまり気持ちいいもんじゃないと感じる人もいるだろうなあと思ったりする。抜け出せない負の無限ループだ。
こういうときは、自分のこととして読んだり考えたりするんじゃなく、友達の言葉だと思ってとらえたらそのループを止められる。友達のことだと思うと否定する気持ちが起きない。それを毎回自分に適用してかわいがってあげる。「わかる~~」と言ってあげるのを忘れてしまうから、終わらないループになる。
これもこうして書くことで少しでもまた定着度を上げていこう。


私は心理的安全性を感じていないというのか、リラックスしていない場面がけっこう多い気がする。
思っていたことをそのまま相手に話す場面もかなり限られている。人と会っているときに、考えていたことや、相手に対して聞きたいと思っていたことが頭に上ってこないのもいつも不便に感じる。話しそびれるから、こうして書かないとスッキリしないし、忘れてしまう。
なんでこうなるんだろう。

人と会うと、自分の状況を表明する前に、相手の状況を把握しようと様子を見る。相手が望んでいることを読み取ろうとする。
相手が好ましいタイプだと安心できるまでは自分を出さないし、好ましい相手なら、センサーが相手の方に向いて、相手の望みを感知しようとして、それを満たそうとする。センサーが一方向にしか向かないので、自分の方が感知しにくくなる。
(夫との旅行中は、さすがにセンサーが自分の方に向いて、疲れに気づく瞬間がある。ただし、相手がそれを知ると不満そうになる(←ここが問題)ので、無理しないといけなくなる。そう考えるとなんて奴だ。私の健康より「せっかくの旅」が大事かよ。やっぱり腹立つ。「一緒に楽しみたい」とか言うな。「俺がしたい旅行に従え」が本音だろ。やっぱりこの人も嫌知らずなときがある。一人で行け。私一人で旅行させろ。)
(こういう言葉遣いをしないでいられる人って上品でうらやましい。私はぼけたらキレるときに暴言を吐くおばあさんになるだろうな。そういうおばあさんとして自分を愛するか)

私が疲れるのは、私よりもエネルギーが強く、望みをはっきり表明する相手といるときにも、相手に合わせすぎているからなんだろう。
エネルギーレベルや望みの方向性や表明ぐあいが似ている人なら、ビタ合わせしても疲れなかったり、自分の望みも感知できる隙があったりするし、むしろ感覚が合うことの快感もあるけど、好ましい人の中にもそこの幅がある。
相手と折衝する心理的負担と、自分が無理をする体力的負担を天秤にかけて、後者を取っている。相手をがっかりさせるかもしれない不安の大きさよ。たぶんほとんどの友人はがっかりすることもないはずなんだけどな。
相手と自分の比重があまりに違いすぎる。私をもう一人の友達だと考えて、第三者の感覚になれば、どちらにも重きを置いて冷静に代替案を考えられるだろうか。手間がかかって大変だ。


この日記は自分のために書いているけど、自分が満たされたら、人に伝わりやすい形に書き換えてもいきたい。
子供に教えるために言い換えるとしたらどう伝えるか、何をすれば子供に伝わるか、とかを考えるのも楽しそう。
でもまだ自分を満たせてないからそっちにいかないんだろう。まずは気が済むまで自分のために書くことに集中していいか。

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