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自分の思想と仕事で触れる思想

私が今関わっている仕事や業界の雰囲気は、私のもともとの好みとはけっこう違う。

勢いのある社長が熱狂(や炎上)の中心となるような人たちと積極的につながりを持ち、前のめりにビジネスを展開する会社で、私はインタビューメディアの運営を担当している。そこには度々、のちの炎上の当事者となる人や当事者だった人がゲストに招かれている。今日のゲストも、ネット上ではN国党党首の恋人として知られている人だった。


私は今の会社も仕事も好きだし面白いと思っているけど、たとえばニューズピックスやアベマの雰囲気はなんか好きになれないし、N国党とか炎上(を辞さない)系YouTuberとかになるとだいぶ嫌いだ。
忖度なしに過激なことをはっきり言う人を持ち上げる感じとか、利益のためには手段を選ばない人、合理的にやれる人が結局すごいんだ、みたいな思想は反射的に嫌う傾向がある。

これは両親の影響が大きいと思う。両親はそういうことをよそで話すことはなかったけど、家庭生活の中で、そういう思想を疑う余地もなく「よくないもの」として嫌悪するように育った。

家族だけじゃなく、高校・大学時代に触れてきた人たちも、ほとんど大きくは変わらない志向だと思っていた。私が自然とそういう人に引き寄せられたのかもしれないし、単に私がそうだと思い込んで人を見ていただけかもしれないけど。

なんにせよ、そうやって私は自分のもともとの思想をずっと「常識」とか「良識」だと思って生きてきた。
その思想にどっぷり浸かっていた頃は、「社会に出る=多くの他人と利害関係になる=誰かを犠牲にして、踏み台にして生きていく」ことのように感じていて、社会に出るのが本当に怖かった。


そんな私なので、今のメディア運営の仕事で触れるベンチャービジネス業界の思想には、最初けっこう抵抗があった。「ベンチャー企業のM&A」というテーマも、面白いけどサラリーマンの自分との距離を感じるものだった。

でも、そのインタビューの魅力は何か、どうすればそれが伝わるかを考えながら2年も働いているうちに、好き嫌いに関係なくそういう人たちの思想がインストールされてきた感じがする。(仕事でやってるんだから当然そうじゃなきゃいけないかもしれないけど。)


社会に出るまでは理由を確認する必要もなく、周囲と思想を共有できている感覚になれることが多かった。
その一方で、疑問も批判も全くなしに、同じ愚痴を言い合える気持ちよさがあるだけで何も生みだせないし、どこかに進んでいる感じもなかった。

今まで反射的に「好きじゃない」と思ってきたものをちゃんと知って理解したうえでジャッジできるようになれば、同質な人たちだけと閉じていた世界から出て、自分含め、今まで動かなかったものが動いたり変わったりするかもしれない。
仕事のおかげで、その「ちゃんと知る」の段階に近づけた気がしている。

今日N国党党首の恋人の話を聞く機会を得たことも、よかったと思う。今までは身近な人が「N国党って面白いよね」と言うと、一気に「まじでやばいどうしようもう話通じない」とパニックになっていた。
でも今日、仕事として冷静にその話・それ以外の話を聞いていたら、「その人にはその人なりに納得したところがあったんだな」と、共感できない部分がある相手がいること自体を冷静に受け止めることはできた。
それができるようになれば、私がこれまでできなかった理解や対話に少し近づける。


嫌いなものは嫌いなままだし、それがなんでかはまだうまく説明できないけど、仕事のおかげで、変化の兆しが見えてきたことが嬉しい。

たぶんこの先もけっこう時間はかかるだろうけど、仕事を通して、自分のこれまでの思想を見つめ直していきたいし、自分の中になかった価値観のジャッジをやり直していきたいと思う。



正直、こういうことを書くのはめちゃくちゃ恥ずかしい。
無思考に価値観をインストールしてきたし、それに無自覚すぎて、他人もそういうもんだと思っていた。だから他人の価値観が無思考にインストールされたものなのか、その人の考えがあって選択したものなのか確認したこともない。どっちの人がどのくらいの割合なのかも、全然想像できない。

ただ、過去の自分に今の思いを教えてあげたいと思うし、似たような人は「私もそうだったよ…つらい事実だけどがんばろ…」といたわりたい。その思いと、アウトプットしてスッキリしたい一心で書いてみました。


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