身体違和の例
身体違和がない人がSRSすれば後悔するのは誰でもわかることです。
なぜ私に生まれつき身体違和があったのかはわかりませんが、不思議なので思い出してみます。
小学校二年生くらい。 父や母と交互に一緒にお風呂に入って、自分の身体が母親と違うことに疑問を持った。父のような身体になりたくなかった。
わたしは母親に聞いた。
”お母さんもおちんちんついてるんでしょ?中に引っ込めて隠しているんでしょ?”
母親はバカなことを言うもんじゃないと怒った。
怒った母親を見て、核心をつかれて焦っているなとすぐわかった。
姉たちのようにおちんちんを体内に埋め込むのが上手くなれば女の子になって、子供も産めるのか。
わたしの推理は絶対に正しかった。
子供を産む穴はお尻の穴に決まっている。隣の家が飼っている鶏が卵を産むところを詳しく観察したので、間違いはない。お尻の穴から卵を産んでいた。
おちんちんを体内に埋め込んで、男の人を好きになれば、赤ちゃんをお尻の穴から産める!
わたしの推論はいつも絶対に正しかった。
小学校高学年で、タック(男性器を体内に押し込む)の方法を自分で考案した。
(母親と姉たちがタックの方法を教えなかったのは、私に対して悪意があるからに決まっている)
https://www.healthline.com/health/transgender/tucking#how...
今でこそTuckについての情報は海外でも共有されていますが、インターネットのない昔、わたしは自分で考案しました。
中学一年生 保健の授業。 自分には子宮卵巣、膣がないので子供が産めない事実を知って衝撃を受ける。
中学二年生 わたしがくっついていた男の子との関係を疑われ、ホモだホモだと学年じゅうの噂になった。彼は、おれはホモじゃないと全否定し、わたしは、ホモじゃなんでいけないの?とクラスの女子の前でひらきなおった。 女子は唖然としていた。(ホモは現在差別用語です。ゲイという言葉はまだありませんでした。)
彼は異性愛者だったので、女になって見返してやる!と心に誓った。
そして、タックは続けていた。 何か解決方法があるに決まっていると自分を信じた。
高校一年生、雑誌でカルーセル麻紀の性転換を知った。 これだ!と思った。 部活や体育がない日はタックを続けた。
だが性転換費用が数百万かかることで絶望した。 ニューハーフになれてもわたしの身体なんか買ってくれる人がいるのだろうか? 一体何人に身体を売ればは数百万たまるのか・・・・・高校生のうちはそんな計算をやっていた。
大学生。 諦めてゲイとして生きられるか模索した。ゲイバーに行って相談したがなんか違っていた。 エイズパニックの真っ最中で、ハッテン場に行く勇気がなかった。
30代、自分の人生を生きていないので、”こんな人生生きるに値しない”が口癖になった。 この世のすべては3Dの立体映像に過ぎず、シミュレーションに過ぎないと感じた。架空の人生なのだから、終わりにしても良いと思った。
暗い人生を歩みつつも、タックは続けていた。
中村中さんが紅白で女性に出場したのを見た。ニューハーフ業をやらなくても女性になれることを知った。 もう我慢できなくなった。
カチカチのアナログインターネットで性同一性障害、ホルモン入手を検索するようになった。
大学生のころ、日本では性転換は違法行為で、医師が処罰される状況だった。
やっと、正当な医療行為で性転換できるようになったので、一番診断が厳しい精神科に通って、メイドインジャパンの人工女になった。 手術の輸血は自己血の輸血ですんだので、輸血のトラブルは避けられた。 仕事を休んだのもたった二週間だった。 座ると猛烈に痛かったが、わたしには平気だった。 もう終わっていた人生なので、生きられるだけで儲けものだからだ。 ダイレーションも苦ではなかった。
カルーセル麻紀さんと話す機会を得た。
やはりわたしのロールモデルだった。
彼女が生きた時代はあまりにも昔なので、ショービジネスしかなかった。
彼女が今若かったら、大きな会社の経営者だったのではないかと思った。
彼女は性転換手術後50年くらいしているが全く後悔していない。
わたしも10年以上経過したが、全く後悔していない。