本当にそこにあるものを見る時間を
サラサラと葉擦れの音が聞こえてくる。
今日はとても空がきれい。
青空を背景にして揺れている葉っぱ達をしばらく見つめる。
暑さが少しだけマイルドになり、日傘があれば昼間に外を歩くのも平気になってきた。
電車に乗るかどうか一瞬迷ったけれど、一駅分歩くことにする。
ちょっと別の道に入ってみて、また戻ってみる。
歩いている時間は発見が多い。
特に、歩いている最中にも頭の中で存在感を放ち続ける「実際にはその場にはないもの」に気付く時間は、結構貴重なのかなと思う。
一瞬でも客観視して気付くことができると、その存在達は少しずつ消えていく。
1日の中で、「本当はここにはないもの」に支配されている時間ってどのくらいあるんだろう。
下手したら、それらによって人生が作られていると言っても良いくらいの状態になっている時もあるのかもしれない。
ほんの少し前までは暑すぎて、ゆっくり空を見上げるなんてこともしなくなっていた。
ただただ、目的地に早く着くのを願いながら歩くのが通常になっていた。
それはそれで悪くはないんだろう。
ただ、本当はそこにあるのに、見えていないものっていっぱいあるなぁと改めて思う。
そして逆もまた然りで、後者をできるだけ少なくしていけたらもっともっと軽やかに生きられるんだろうなと思う。
頭の中でベートーヴェンの『月光』がリピートされていた7月。
いや、今もう少し何とかしたいのはショパンとかムソルグスキーのアレンジなんだけどな、と思いつつ、その頃にたまたま見つけたコンサートのチケットの抽選に何となく応募していた。
10名の枠だったので、あまり期待せずに。
先日、『月光』が演奏される午前の部の当選のお知らせが届く。
「わーい」という喜びの気持ちが半分、「やっぱり来た」という気持ちが半分。
こういうことは本当に頻繁に起こるようになった。
自分の気持ちを尊重する選択をしようと決めて実際に動き始めた時から、明らかに急増していった。
自分の気持ちを尊重するというのはもちろん他者をないがしろにするという意味ではなくて、
自分の中に芽生えている感覚を無視せずに、その感覚のために何かしらの行動を起こしてみるという表現が近いのかもしれない。
その中には、一般的に「リスク」だと考えられる行動を取ることも含まれる。
そして、この見返りとして何らかの嬉しい知らせがやってくる。
こんな風に展開していくんだな、と最近はコツのようなものをつかみつつあるのかもしれない。
ドイツ語の授業を終えて生徒さんに手を振って、さっきより暗くなった道をまた一駅分歩く。
過信せず、助けを求められる場所は作っておくこと。
そして、目の前にあるものからは目を逸らさず、そこにないものに心を煩わされず、抱えきれないものまで抱えようとしないこと。
帰りは真っ直ぐ歩いて帰ろう。