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力に触れるとき


今年の夏、マンションの共用の庭に生えていた雑草たちが、みるみる成長し、最終的には私の背丈を超えるくらいの高さになった。同じタイミングで、皆で示し合わせて1mくらい一気に伸びたんじゃないかと思うくらい、私はその成長の途中経過に全く気付かず、あれ?と思った時には、もう結構な高さだった。

「いつの間に…」というのは、まさにこういうことか、と思った。

庭に生い茂っている背の高い草たちの存在に気付いた後、無制限に放たれている生命力の主張がなんとも暴力的で、眺める度に恐怖に近い感情が沸く。気になって仕方がない。


怖いもの見たさのような、そんな気持ちでしばしば見入ってしまって、1人でガラス扉の前に立ち、風に揺れている緑色の草たちをぼーっと眺める。この夏は、そんな瞬間がちょくちょくあった。


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他の住人の方たちは気にならないのかな、と思いつつ、しばらく様子を見ていたけれど、何も行われる気配がない。網戸にひっかかっている部分だけでも抜いてみようかな、と手で引っ張ってみたけれど、途方もなさを感じて断念した。


誰にも気付かれず取り残されてしまったような空間で、無制限に、上に上に、と伸びていく草たち。見るべきではない光景の目撃者になってしまったような、これまで気付かずにいたことを責められているような、ふとした時に、そんな気持ちにもなった。


「なんか怖い」という生徒が何人かいたので、さすがにと思い、結局、管理会社に連絡した。翌週には、業者の方が草刈りをしてくださり、草たちは跡形もなく消えた。「いなくなった!」「なくなると、ちょっと可哀想な気がしてきたね」と、しばらく話題になった。


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そして昨日、朝から庭での作業が再度始まり、午後には、地面に白と灰白色の石が敷き詰められていた。マンションのデザインと合わさって、そこはとても綺麗で整えられた美しい空間になった。


もう二度とあの光景を目撃することはないだろう、と思うと、ほっとした。一方で、生命の存在が無自覚に放ち続ける「生々しさ」が奪われた空間の静けさに、ちょっとだけ寂しさも感じた。

どこまで手を出し、どこまで手を入れて、どこまで手助けするか、という問題に直面する時、繊細な感覚と毅然とした態度が必要とされるし、その基準も、相手と自分自身の変化とともにアップデートされていくものだと思う。

やり過ぎることも、それによって一時的に双方にメリットがある(ように見える)形にすることも簡単なことで、ただ、それでは失われるものが確実にある。力を奪ってしまう。

最近は、ちょっとだけ忍耐強く待てるようになり、長期的な成長を見届けられるようになった。それとともに、自分の感覚も日常も、途中経過の中の欠かせない1点として見ることができるようになってきた気がする。

草たちとの短い日々を思い起こしながら。






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mai
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