ロイヤルミルクティーと朝散歩
一駅先にあるタリーズまで歩く。
暗くなるのが早くなった。
2階の窓に面した席からは駅前の広場が見渡せる。
広場にある池の水面に照明の光が所々反射してゆらゆら揺れている。
甘いロイヤルミルクティーにシナモンパウダーをかけて席につくと、ほっとして色々と切り替わる。
明るい時間は徐々に減ってきているのに、最近一日が長いと感じるのはなんでだろう。
完全に個人で仕事をするようになってから、1か月という期間にこれまでの3か月分くらいの出来事や、自分の意識の変化が起こるようになった。
同時に、平和な感覚が少しずつ増え「なんか、色々余っているのかもしれない」と感じられることも増えた。
これまでも「今あるもの」に感謝していたつもりだった。
でももしかしてそれは、あんまり認めたくはないけれど「つもり」にすぎなかったのかもしれないと思う。
本当は、一日はちゃんと長かったのかもしれない。
選挙の投票日は、朝早い時間に投票所まで歩いていくようにしている。
家を出てから帰ってくるまでは僅かな時間だけど、この朝散歩のおかげでとても心地良い日曜日の朝になる。
普段歩いていく方向とは逆の方向に投票所があることもあって、近所なのにあまり認識していなかった素敵な建物やお店があるのに気付くこともしばしば。
自分の知らない世界が本当はすぐ近くにあって、そこでは全く知らない人々の暮らしが営まれている。
それは当たり前のことのように思えるけれど、私が子どもの頃に暮らしていた地方ではこれはあまり経験することのない感覚で、もう10年以上東京に住んでいるのに、未だに不思議な感じが時々する。
小さな世界がいくつも並行していて、ふとしたことで縁が生まれて、何かの拍子に切れて、また何の前触れもなく繋がったりする。
そんなことの繰り返し。
そこには、偶然のようで偶然ではないような、およそ思考では説明のつかないメカニズムが働いているように思う。
そして私は、このメカニズムのことを結構信頼しているところがある。
6分ほどにまとめてアレンジしたショパンのピアノコンチェルト第1番第1楽章。
この美しい音楽を2週間後、またステージ上で演奏できる。
「別のステージでまた弾けたらいいな」と昨年ぼんやり思っていたには思っていたけど、特に何にも考えずに過ごしていたら、本当にその機会がやってきてくれた。
毎晩仕事を終えた後、最初にバッハを数曲弾いて心を平らな状態にする。
その後、自分で書いた楽譜を細かく分けて練習していく時間は、私にとってエネルギーをいただいている時間になっている。
200年前に生きた1人の個人に対して、素直な尊敬と感謝が溢れてくる時間は宝物だと思う。
勉強・語学の指導やカウンセリングを通じて関わっている方達と現代のリアルな時間を共有する時間と、過去と今を行き来する時間。
共存する2つの時間軸に支えられて今日も1日が過ぎていく。