ゼロに戻る時間
久しぶりなのに、よく分かるねぇ。
朝から飛びついてくる姿が本当にかわいい。
一方で、前回会った時よりも少しだけゆっくりになっている動きが気になって、つい目で追ってしまう。
その変化はほんの小さなものではあるのだろうけれど、確実に存在する。
やっぱり人間とは時間の流れ方が違うんだろう。
全く別の世界を生きている存在が「部屋に入りたいからドア開けて」と訴えてくるのは、ちょっと面白い。
「また遊ぼうね」と声をかける。
「また」が来ることにまだ疑問を感じることはない。
ただ、「また」という言葉を口にする時、意識的に「また」を作ろうとする気持ちだけは失ってしまわないように、と思う。
それは、相手が人間であろうと動物であろうと、あるいは、生きていようがそうでなかろうが、変わらず大切なことなのかもしれない。
元旦の前後も何だか慌ただしかった。
自分が体感している時間の流れ方がホワホワとしていて、それでいて身体は予定に合わせて動いていることに少しだけ違和感を抱いていた。
あれ、腰が痛い。
普通ではない痛みに何度も目を覚ました夜が始まりに。
蓄積していた疲労に無感覚になっていたんだな、ということを明確に認識するまで、体調不良が長引いていた。
何度かはどうしようもない気持ちになりながらも、今の生活や行動、その根底にある自分の考え方や思いにどこか修正した方が良い部分があるんじゃないかと点検していく。
自覚できているつもりではあったけれど、本当には分かっていなかったんだなということはきっと沢山ある。
達成感や嬉しさによって懐柔することができたからといって、その堆積が止まるわけではない。
新しい年の始まりに強制的に気付かせてもらうことができて、すでに「得体の知れないもの」にすらなっていた感情とも向き合うことができたのは貴重な機会だった。
1月から思うように動けないことにただただイライラするのではなくて、その現象を生み出しているものを見つめ直し、そのイライラと結びついている別の感情を認識しておく。
こういう時間がなかったら、もっと取返しがつかないところまで行っていた気がする。
自分が大切にしている生徒さん達との時間の価値にも影響が出ていたと思うし、生み出していけるものの質を上げていくことも困難にしてしまう。
ずっと行ってみたかった町屋を改装したカフェに入ってみる。
レンズ豆が沢山入ったキーマカレーと色鮮やかな季節のタルトを、時間をかけてゆっくり味わう。
さっきまで弾いていたハイドンのイメージを描けるようになり、方針が固まっていく。
誰かのためにある時間と同じくらい、いやそれ以上に、自分のための時間を大切に確保していく。
そうやって、嬉しいとか悲しいとかそういう振れ幅の中を動き続けるのをリセットして、ゼロの状態に戻る時間を作っていく。
いつも必要なことが起こってくれることに感謝の気持ちを込めて。