シンプルで安全な世界を選ぶ
確か「チビちゃん」って呼ばれていた気がする。
そんなことを思い出し、「チビちゃん」と声をかけてみる。
人馴れしている猫ちゃんだな、とずっと思っていた。
名前を呼びかけてみると、こちらの顔をじっと見つめながらゆっくり近づいてくる。
おぉ、「チビちゃん」で合ってたんだ。
名前を呼ばれるって、やっぱり嬉しいんだね。
これまでよりダイナミックに人生が動いていく状況に身を置くようになったから、
頭の中の整理も兼ねて、この1か月の間にできたことを1つ1つ書き出す時間をとっていた。
ある時点では不安で仕方なかったことも、1か月経って振り返ってみれば「何でもないこと」になっているのがほとんどだ。
それは、改めて不思議な感じがする。
「問題」のように思えていた事柄も基本的には全て解決しているし、「あるのが当たり前のもの」が増えていく。
そもそも「問題」ではなかったんだろうなと思う。
おそらく。
結局は自分が目の前にある世界を「安全な世界」だと思えているかどうか。
そういう根本的な心の在り方の影響が大きいのかなと思う。
「安全な世界」だと思えていないと、次から次へと不安の種を作り出してしまう。
1つ解決しても、また不安をもたらす別の何かが目の前に現れる。
その繰り返し。
これは自分で気付いて止めないと終わることがない。
もちろん全てではないけれど、本当は必要のないことを自分が勝手にやっている側面もあるということに気付くと、割と何でもないことになっていく。
面白い現象だと思う。
私の仕事は、他者の不安や悩みというものがベースにあって、
それを少しでも良い方向に持って行きたいという願望から生まれているものでもある。
いわゆる勉強の指導であれ、カウンセリングであれ、それは共通している。
世の中から不安や悩みというものが完全に消えてしまったら、成り立たない仕事でもあるのかもしれない。
ただ、だからこそ、自分自身は「本当はそれぞれが自分で種を作り出している側面もある」ということに自覚的でい続けないといけないと思う。
1つ1つの問題らしきものを、手取り足取りサポートして代わりに解決してあげることにはあんまり意味がない。
それは依存的な姿勢を生み出してしまい、逆効果でもある。
再び別の形をした「問題」らしきものが現れてくるだけ。
より複雑な別の形をして。
誤解を恐れずに言えば、問題がなくなることを本当は望んでいないんじゃないかと思えるくらいに。
これからもずっと元気で活躍してほしいからこそ、私自身は「問題」の中に入らないことが大切だと思っている。
先日、お世話になっている鍼灸師さんが「毎日自分の身体に向き合ってセルフケアで治そうとする人の方が、何度も治療に通う人よりも良くなるよ」とおっしゃっていた。
どんな分野であっても、通じる部分はあるんだろう。
チビちゃん、またね。
じっと見つめてはくるけれど、追いかけてはこない。
また会いにこよう。