兆しを見つけていく
例えば、本棚の本を一度全部出して並び替えてみたり、
よく飲む飲み物を、ちょっと珍しいミネラルウォーターに変えてみたり、
洗剤やハンドソープを、使っていて気分が上がるものに買いかえてみたり。
価値観が変わったり、一緒に過ごす人のタイプが変わったり、ずっと踏み出せなかったことにチャレンジできるようになったり、といった割と大きな変化は、意外と、毎日の些細な選択の変化の結果なのかもしれない。
先月完成したテキストを、協力してくださった方、お世話になった方達に届ける作業を続けている。
高校生くらいからだろうか、薄いテキストの冊子のページをめくるのが好きで、どんな形であれ、いつか作ってみたいなと漠然と思っていたことを思い出す。
何かを生み出す時って、時間の感覚がやや歪なものになることに気付く。
それは、これまで編曲した作品が完成した時もそう。時々、「この部分どうやって作ったんだっけ」と思い出そうとしても、おそらく苦労もしたであろう1つ1つのプロセスの記憶は靄がかかったようになっていて、何だかリアリティがなく、ただ作品だけがそこにある。
昨夜、14年前に編曲したコンチェルトを弾きながら、こんなに月日が経ってもその時々で色合いを変化させながら表現できるものがあることに対して、無の状態からその実体を生み出していくこと自体に価値があり、意味があるんだろうなと、ふと、少しだけ感慨深くなった。当時はそんなこと全く思えなかったけれど。
製本された完成品を触って、パラパラとページを行ったり来たり。目次にちょこっとだけ載せた実家にいる愛犬の写真に癒されながら、不思議な非現実感に包まれる。
ここ数年は、沢山の子供たちの挑戦を身近な存在としてお手伝いさせてもらって、一人ひとりと本当に沢山の話をして、沢山の本を一緒に読んで、文章を書いて、それぞれにとっての1つのゴールに到達するのを見届けてきた。
その中で、なんだか皆がエネルギッシュになっていく、その根本にあるものは何なんだろうな、と考えてきた。
多分、それはテクニカルなものではなくて、もっとずっと本質的なものなんだと思う。それを、どんな形であれ必要な人の元に届けられるようにしていけたらいいなとずっと思ってきた。
その手段が1つ増えたことは、自分にとってとても大きな1歩で、この春の喜びの1つになった。
毎回「頑張ってね」と手を振る時、「ありがとうございました」と返ってくる言葉とともに笑顔が見える瞬間は、私にとってかけがえのない時間になっている。
その「頑張ってね」を、どんな形であれ伝えていけるものを生み出す作業を、これからも楽しんで続けていきたいと思う。