スピードの中の緩慢さ
昨日まで久しぶりの一人旅。イベントがあったこともあり、たくさんの出会いがあった。
とても綺麗な海、気持ち良い天気。知らない土地に行くことが元々あまり好きではなく、旅行の予定が入るといつも、楽しみより億劫な気持ちの方が強くなる。そんな自分が今回は自然と「行こう」と動き始めたことは驚きだった。
幸せなことに私は普段、組織?に所属しながらも、割と自由に好きな仕事をできている方だと思う。それでも日々仕事ばかりしていると、どんどん自分の世界が狭くなっていく感覚に襲われる。それに伴って、気にしても仕方ないような些細なことに不安を抱き始める。さらに、悪い癖ではあるのだけれど、「他人に頼れない」→「他人の行動に対するハードルが上がる」という現象が起きる。
そうした自分の心持を、なんでだろうなぁ…と時々冷静になりながらも、止められない。仕方がないから、とりあえず可能な限り自分でやってしまいたくなる。1つ1つは大したことはないのだけれど、ちょっとした無理が蓄積して自分で自分の首をしめる。
余裕がなくなってきているなーと分かってはいたけれど、そういう時って頑張ってセーブしようとしても、ワーカホリックな方向に行ってしまう。旅行までは頑張ろうーと思って、色々とつめこんでいたら、先週どんどん体調が悪くなり、ぐったりしていたら出発の朝だった。
基本的に一人でのんびり歩いたり、ぼーっとしたり。観光もほとんどせず、ゆったり過ごした。体力的にしんどくなってきたので、イベントも途中で抜けてペンションに帰った。
東京とは全然違う環境に来てみて、普段頭の中で知らず知らずのうちに自分の行動に制限をかけている部分がたくさんあるんだな、と気付いた。心配だったり、恐怖だったりって自分を守ってくれる脳の機能なんだろうけど、そのままにしておくと全てが緩慢に、なんというか退化していく感じがする。
田舎のゆっくりとした時間の流れの中で育った私は、東京の生活がこういう時間の流れを変えてくれると思っていた。東京での生活ももうすぐ10年。確かに生活のスピードも変化のスピードも全然違うのだけど、忙しいがゆえに、かえって緩慢になることもある。それはそのスピードの中で生きるようになって初めて気付いたことだ。回し車で走っているハムスターを見ている時の、なんとも言えない滑稽さとちょっぴり感じる寂しさを自分の中に発見した時に似ている。
今、中高生は定期テストシーズン。受験生はもうすぐ受験直前期になる。結果を出すために頑張らせないといけなかったり、自分自身もそのためにすごく力を使う。これまで「結果は出す」ということは絶対であって、大事な場面でホームランをうつことも、こと学習のサポートに関しては必然にさえなっていた。それが一番目に見える形で、周りの人たちに還元できる行為なので、やらない理由がなかった。
ただ、最近の子供たちを見ていて、やり方や「結果」の中身を変えていく必要があると強く思うようになった。塾の先生って色んなスタンスの人がいる。「自分だって高校生の時はやりたいことなんて分からなかったし、偏差値とかで選んでいたよ」と平然と生徒に言って(それは構わないのだけれど)、本人とじっくり話す時間をもたないまま勉強だけ教える講師をたくさん見てきた。
長時間労働になる職業で、先生たちも余裕がないのはよく分かる。これまで、そうした中でも無理矢理時間を作ってきたけれど、一人の物理的な時間はとてもとても限定的だ。もっと多様な立場からの理解を広げていかないと、この問題は先が見えないなと思う。
縁あって関わる子供たちには、自分のやりたいことさえ分からなくなってしまうような人になって欲しくないなと、ただただ思う。もちろん「やりたいこと」なんて曖昧な概念で、その時々で変化していくものだ。
だからこそ、そうした変化の中で生まれる葛藤にもきちんと向き合って、本当に自分のために悩まないといけない場面で真剣に悩んで答えを見つけていける人になってほしい。今はまだ一歩一歩だけれど、着実に。そうした学習支援ができる場をつくっていきたい。この気持ちは、仕事から離れてぼんやりしていた旅行中、より強く、確かなものになった。
知らない土地で自分に向き合う時間をとったことで、ちょっとクリアになることもあるんだな。そんなことも分からなくなるくらい、日常ってある意味破壊的な力を持っていると思う。またどこかに出かけてみようと思います。