分からないままでも大丈夫
門を通り抜けると大きな百日紅の木が1本立っている。
木の下に入ってぐるりと一周してみる。
ぶつかりそうでぶつからない高さにある枝を見上げると、もうピンクより緑色の割合の方が多くなってきていて、
今年の夏もちゃんと終わるんだなと思う。
次に来る時はきっと長袖だ。
9月はドイツに出発する生徒さんの日本での最後のレッスンが2人続いた。
不思議なご縁で絶妙なタイミングで授業を開始して、2人とも短期間だったけど、
ゼロからある程度コミュニケーションには困らないレベルのドイツ語力がついてきて、安心した。
年齢もドイツに行く理由も全然違う方達だったけれど、新しい環境の変化を前向きに受け容れて、楽しみながら必要な準備をコツコツ積み重ねていくことが、その人に必要な能力を自然と開花させていくんだな、と側で見ていて感じていた。
純粋な語学授業は、受験指導やカウンセリングの仕事とはまた違った楽しさがある。
言語が持つ魅力、奥深さ。
それぞれの頭の中で日本語や英語と行き来しながら、それぞれの言語感覚に合わせた「面白いね」が出てくる時間は、教えている側もとても楽しかった。
誰かの人生が大きく変化する場面で密に関わりを持つ仕事であるのは、これまでもそうだったけれど、
対象が大人の方にも拡大してきていることで気付けることも増えた。
そんなことあるんだ、という展開を聞くたびに、自分自身についてもこれからが楽しみになる。
「今週日本に来ています。タイミングが合えば会いましょう。」
12~13年ほど前、私にドイツ語を教えてくれていたスイス人の先生からのメールが届く。
こんな形でまたお会いできる日が突然やってくるとは思わなかった。
彼女がスイスに帰国することが決まった頃、私は失声症の最中だったらしい。
その辺りの記憶はなんだか朧気で、でも時系列を聞いてみると確かにその時期に重なっている。
帰国されることが決まった時に、私はちゃんとお礼を伝えたりできていたんだろうか?と心配になる。
常に体調が酷く悪く、これからどうしていったら良いのか分からなくて、もう全部「分からないこと」だらけだった日々。
そんな状態が一生続くんじゃないかと結構絶望しつつも、どういうわけかドイツ語の文章だけは読み続けられていた。
ひたすらドイツ語の論文をノートに書き写し、読み続けた時間。
分からない箇所をちょこちょこ先生に教えてもらった時間。
それらは当時の自分が全く意図していなかった形で今の自分に様々な出会いを運んできてくれている。
「色んなことができない時も、何か自分ができることを何も考えずにやり続ければいい」というのは、しんどい時に言われても疑ってしまうけれど、
それが真実であることは時間が経った後にちゃんと分かる。
来月はもう緑一色かな。
門を出て京都駅に向かう。
毎月東京と京都を行き来する生活も6年目。
よく分からないまま動いてみることの恩恵は計り知れない。