ちょっとだけ蓋をずらしてみる
蓄積のために使う時間がなくなってくると、枯渇感が出てくることがある。
私は、本も音楽も人のお話を聞くのもとても好きで、吸収して解釈して自分の中に落としていく作業をしている時間は純粋に心地よさを感じる。枯渇感はそうした行動のエネルギー源になる。
他方で、蓄積したものを外に出していくことには恐怖が伴う時がある。その恐怖を克服しないとどこにもいけない、と自分を責めることで、さらに強迫的に蓄積を続け、外に出せなくなった期間が結構長くあった。
今の仕事をするようになって、その恐怖はなくなった。特にこの5年間は、1年間で3年分くらいは蓄積したものを一気に言葉にして自分の中から出そう、と日常的に意識してきた。
それでも総量は少ないと思うけれど、自分の中にあるものを意識的に外に出すという過程で、それまで抱えてきたよく分からない不安は少しずつ消えていった。環境がそうさせてくれたところも大きかったと思う。
そんな日々の繰り返しの中で、最終的には自分を責めるための格好の題材の1つが、消えた。消えてくれたことで、これまでよりほんの少しだけ肩の力を抜いて生活できるようになった。
どんな形であれ、蓄積の時間は楽しいし、何もしなくても勝手に飽和して出ていってくれる場合は、特に問題がない。
ただ、本人も無意識で、本当に知らず知らずのうちに、自分で蓋をしてしまっている場合、色々なところで支障をきたすようになる。自分自身も然り、普段接している子供たちを見ていても然り。
蓄積されているのは、ただポイポイと放り込んだ知識だけじゃないから。その時の自分の感情だったり、インスピレーションだったりが、ひっついている。
そしてそういうものって、ただ自分の心の中にしまっておくためのものじゃないものも沢山ある。どちらかというと、外に出ていく性質のものなのかなと思う。そして、そこに確かにあるものに蓋をしてしまうと、徐々に本人に負荷がかかってくることがある。
時々、ちょっとした声がけに反応して、突然言葉が止まらなくなる子がいる。普段は特におしゃべりでもなく、問題なく毎日を過ごしているように見えても、実際には色んなことを感じて生きている。
閉じている蓋をほんの少しだけずらして、そういうものを拾っていける空間だったり時間だったりを作っていくことは、無理に心がけてやっているというより、自分にとってそうあれることが心地よくて、好きだから。
そして、きっと、ひたすら蓄積をしていた「過去の自分」が求めていたものって、そういう場所にあるのかもしれないなぁとよく思う。