ありがとうを掬い上げる
あらあら、パソコンの充電器が壊れちゃったかもしれない。
新しい充電器を購入してから1か月と1日しか経っていないので、状況を理解するのに少し時間がかかる。
パソコンが使えないのは少し厄介。
予定を確認しながら徐々に焦ってくる。
実際は何とでもなることが大半だ。
そう頭で分かってはいても何だかソワソワする。
すぐに新しい商品を注文したものの、そういう時に限って予定通りに届かないことが分かる。
ついため息をつきそうになって、深呼吸に切り替える。
そんな時もあるよ。
普段特に意識することはないけれど、私の生活の快適さはこんな小さな脆いものに依存していたんだということに気付く。
当たり前にある、機能する、手に入る、ということを全く疑っていないなんて、何とも無防備だ。
他のことに対してもそうなってしまってないかな。
そもそも、どうにかなる程度のイレギュラーな状況に対して過敏に反応してしまっているのもおかしな話だ。
そんなことをぐるぐると考えながら、洗濯機を回す。
暖かくて気持ちの良い天気。
一人でのんびり外を歩く。
ニットのワンピースにストールで外出できる、このくらいの気温のままがいいな。
こんな日は可愛い犬を連れた人達が多くて、つい目で追ってしまう。
「この地域で犬散歩してる人って勝ち組だよね」
前の方を歩く学生の集団からふと聞こえてきた声。
そんな風に世界を見ていた時が私にもあったのだろうか。
きっと世界は奇妙にずれている。
そんな気がする。
私は待つことが、結構苦手なんだと思う。
思い切り良くスパッと決めて、ある方向に向かって動いていくことは本当に気持ちが良い。
結論を急ぎ過ぎるとも言えるけれど、一度ポカンと空中に浮かんだものは大抵いつの間にかどこかに行ってしまうもので、それが戻ってきてくれる保証はない。
日々変化する状況の中で「本当に必要なタイミングで再び現れるよ」と言えば聞こえは良いし、確かにそういうケースも多々あると思う。
ただ、「気持ちが悪い」と感じてしまうのだ。性格的に。
もちろん、自分自身のリズムや感覚を他者に強要することはできないし、そんな気もない。
だから、向き不向きで言えば、自分の責任の範囲内で結果も全て自分の行動次第、という形に近い方が安心するし向いている。
一方で、一見自分の努力の成果だと感じられるものが好ましい姿をして戻ってくる時、そこにはある種の傲慢さが伴いやすい。
その部分には「過剰」だと思うくらい注意した方が良いんだろう。
普段関わっている子供達に接する時間にも、その辺りのバランスは気を付けている。
沢山の人達のサポートがあるからこそ、チャレンジができるということ。
そうした事実を忘れて「勉強さえできればいい」という子は一人もいないし、そうはならないように。
子供達から周囲の人達への感謝の言葉が自然と出てくる瞬間を見逃さずに、掬い上げる。
そんな感覚を曇らせないでいたいとよく思う。