女の人生「子を産むこと」と「キャリア」との二択。
私のこと、「仕事」か「子供」かの二択
7年前と今と、あまりにも人生の中心みたいなものが変わってしまって、いつになっても慣れているとは言えない。ふと「私は今どこにいるのか?」と思考の中で迷子になる時がある。何が変わったかというと、前は仕事の中で作品を生み出していた、と、今は子を産み育てていること。実際のところ、私は子育ては好きです。でも・・・。あの頃を懐かしく思い出す日は少なくない。まだまだノスタルジックに浸るなんてわけではなく。とても生々しくうずうずする。
かつて私はドキュメリンタリーの番組のディレクターだったんだけど、その仕事に、本当に身が擦り切れるほどに熱中していた、ザ・仕事人間だった。仲間と呼んだらおこがましいけれど、プロデューサーやカメラマンや編集マンら専門分野の先輩方達とあれやこれやと、時には戦い、本質が何か、それをどう伝えるべきだろうかなんて、熱い議論が絶えなかった。被写体の方々の大切な人生の一瞬に立ち合わせていただいたり、企業にとっての大切な交渉の局面に立ち合わせていただいたり、映画や舞台やアートが生まれる現場の熱を舞台裏からたくさん見せていただいた。幼い命を救うため生体肝移植の数時間に及ぶ手術を手術室の中で見守ったこともあった。自閉症の少年の心と向き合ったこともあった。番組を喜んでくださった被写体の方の声を聞くと本当に胸が熱くなった。一番心に残っているのは、私達が作った番組を見て「息子がお父さんの跡を継ぎたいと言ってくれてね」と教えてもらった時、嬉しかった。私は、現場が死ぬほど好きで、きらりと輝く人達をいつも誰かに知ってほしくて、その知ってほしい人々の素敵さを映像に変換して伝えられるドキュメンタリーの仕事に携われたことは今でもなんともありがたいと思っているんです。
でも、一方で、自分のプライベートなどほとんど皆無。いつもコンビニ飯か居酒屋飯で、1日4時間睡眠をとるだけにうちに帰っていた。ストレスまみれで毎夜お酒を飲んでいたし、タバコは1日2箱吸っていた。常に何か自分の体内に刺激物がないといられない感じで、眠りも浅くここぞという取材の前日のスリーピングピルは欠かせなかった。今思えば、自分自身の人生を常に犠牲にして「虚しさ」と「孤独」は私の1番の友達だった。
仕事は充実していたけれどそんな体と心をボロボロにしながら35歳頃から、次第に焦ってきた。私は子供の頃から子供を産みたい願望のある方だったからその期限がどんどん迫ってきているようでさらに焦ってきた。
こんな酷使した不健康な私では産めるはずない。というなんとなくの自覚はあったから、勇気を振りしぼり産婦人科を訪れた。「あなたみたいな男性のような働き方している女性結構いるんだけど、はっきり言う。このままでは妊娠は無理。本当に妊娠を考えるなら今の生活を根本的に変える必要がある」と言われた。あまりにもはっきり言われて帰り道、途方もなくて泣いた。いや、その通りだったから。妊娠を望むならば、女性の体に戻さねばならぬのだ。
私は、同じ職業でフリーランスで出産し、子育てと両立している同性の先輩に会ったことがなかった。かくして「自分のキャリアを貫く」か、「子を産む準備をするか」その二択に迫られ、私は迷いもやもやしながらも後者を選び、自分の体に向き合い、結局女性の体に戻すために5年ほど費やして40歳で子を産んだ。あわよくば、先人になりたかったが、子供が産まれた時キャリアはもう守りたいものではなくなっていた。
そして、今、後悔がないかと聞かれれば・・・
ある。現場に戻りたいと思うことも、もちろんある。
でも、1番の友達だった「虚しさ」と「孤独」とは少し距離をおいて、「愛しさ」と「未来への希望」が今は近しい。ペシミスティックな考えかもしれないけれど、「孤独」とはきっといつかまた共に暮らさねばならないと思う。その時、「虚しさ」が影を潜めていればいいなと思う。それは、今にかかっているかな、とも。子育てを通じてそれまで決して出会わなかったような暖かで伸びやかな人たちと現実世界で交流できていることが嬉しい。そして、何より今地域に根っこを生やそうとして、少しずつだけど根付いていっている実感がある。子供の生活に合わせて、朝・昼・晩の生活リズムは今は優等生で、子供に栄養を取らせるために食も整ってるし、何よりめちゃくちゃしっかり寝ている。今、前とは比べられないくらいとても健康です。あの時のように、刺激的な出来事があるわけではないけれども、1日1日小さな感動に溢れてる。雲に覆われた夜空にも満月が輝いているような気がするし、子供が子供だけで問題を解決していく瞬間や挑戦している姿は見ているだけで胸熱だ。
大人になることは「諦めていくこと」ってよくいうけど。確かにそのとうりかもしれない。少なくとも、私は私のキャリアを諦めた。とも言える。でも、自分でお別れした。と考えることにする。別れは常に出会いを呼ぶ。自分で決心して手放したからこそ、今出会えたすべてのものがあるんだと。いつか今目の前にあるものも少しずつ形が変わっていって、お別れしていかなければいけない時が必ずくるでしょ。親との別れ、子供の自立。だから、今、精一杯胸熱の毎日を送っていきたいなと思う。それが将来くる「孤独」を楽しめる自分であるためのトレーニングなのかもしれないなって思うから。
毎日は続いてく。