崔吉城著『米軍慰安婦の真実』を読んで
崔吉城先生のテーマは、いつも興味のストライクゾーンに入ってくる。先に書かれた『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』もそうだったし、植民地における宗主国の建築物に関する比較研究もそうだ。オリジナリティのあるテーマが、独自の調査と思考で論じられていく。韓国関係の本はいささか食傷気味でもあるけど、崔先生は特別だ。いつも最優先で読み、そして考える。
この本も何度も読んで、ずっと考えている。
少年が見た米軍慰安婦の村
生まれた村が米軍慰安婦の村になった物語は、著者の幼少期の体験から始まる。好奇心旺盛な少年が新しいもの、珍しいものを、積極的に観察し記憶する。著者は幼い頃の自分に問いかけ(インタビューし)、記憶(証言)の裏付けをとっていく。一流の文化人類学者が自分自身を取材対象にして物語を再構築していく、この本の前半分は掛け値なしに面白い。
特に日本の敗戦から解放、朝鮮戦争の部分は、私自身が昨年インタビューし、まとめた「北朝鮮出身の元NATO軍軍医、ドクター・チェ」(『中くらいの友だち』第3号)とも背景を同じくする。38度線と軍事境界線は違うのだという確認は、奇しくも私自身も強調した部分である。
さらに、この物語は私の母の物語にも通じる。私の母も80歳を前に自分の記憶を一冊の小冊子にまとめたが、それは自分の生まれた街が「遊郭」になった話だった。軍の連隊が置かれて軍都となると同時に、市の一角には遊郭が、計画的に作られた。母は幼い目で見た遊郭の様子を、70年後に文章にした。日本の遊郭で暮らす少女もまた、朝鮮の慰安婦の村の少年と同じぐらいの好奇心で、街と世の中の変化を眺めていたのである。
前半はあっという間に面白く読んだのだが、後半では疑問がいろいろ出てきた。大きくは以下の2つだ・
1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
2, 韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか。
1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
7月半ば、愛知大学のオープンキャンパスで担当している「現代韓国事情」の最終回、崔吉城先生の新刊『米軍慰安婦の真実』を紹介しながら、「米軍基地村での性売買”慰安婦”に損害賠償」問題をとりあげた。「米軍慰安婦」については今年2月、韓国の国家責任を認める判決が出ている。http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29733.html
「日本以外の国にも『慰安婦問題』があったなんで、私はいままで知りませんでした。大変、ショックです。なぜ、知らなかったのでしょう」
女性受講者が何度も驚きを訴えた。すると、男性受講者が「それは、マスコミが偏向しているからです」と決まり文句。それに対して、「偏向というより、視聴者が関心がないことは報道しないだけでしょう。日本軍慰安婦問題は日本に関係があるけれど、米軍慰安婦問題は直接関係ないから」と、常識的な意見が出る。
ただ、「米軍慰安婦」は韓国でも長い間、大きな問題とされずにきた。日本メディアの偏向云々についてはともかく、韓国国内の問題に関しては、私が説明する必要がある。
崔吉城先生は『米軍慰安婦の真実』の中で、「対日」と「対米」のダブルスタンダードを指摘されるが、私はそこがうまく理解できない。韓国人は日本に対しては厳しく、米国に対しては甘いということがあるのだろうか?
私自身が暮らした1990年代~2000年代の韓国は、反米運動がとても盛んだった。それを洋泉社新書の2冊の著書にも書いた。たとえば光化門の米国牛肉輸入反対デモに2万人、ところが同じ時期の日本大使館前の慰安婦関連集会には200人というのが、日常的な風景だった。韓国人のナショナリズムは「敵」が明確な「対抗ナショナリズム」という印象が強いが、その「敵」は状況によって相手を変えるように見える。時には「反日」、時には「反米」、また「反中国」を強く感じる時もある。それは時の政府の、政治外交上の事情が深く関係しているように思う。
「慰安婦」問題についても、民族的な感情というより、政治的な便宜主義(政治外交のカード)を強く感じる。しかし、崔先生は、国連軍の性的暴行や米軍慰安婦がこれまで語られてこなかったことを問題にする。
「ここで、どうしても私に、一つの疑問がわいてくる。なぜ、明らかな犯罪である国連軍の性暴力、つまり米兵が朝鮮戦争の時にひどい性暴行をしたということは、彼らにとっての問題にならないのか。なぜ、韓国の人たちは、このことを取り上げようとしないのか」(p179)
「韓国の人たち」というのは、政府と国民の両方を指すのだろうか?
ただ、日本軍の従軍慰安婦についても、韓国政府が真剣に取り組むようになったのも2000年代に入ってからだ。1990年代以前には政治交渉に持ち出されることも、国民的な運動が起こることもなかった。
さらに、私が疑問に思ったのは、次の部分だ。
「性の問題に関して、フェミニズムとナショナリズムは、常に緊張関係にあったが、敵対(?)する日本に対するものとは対照的には、アメリカに対しては非常に寛容だった」「つまり、米軍相手の売春は比較的自由であり、法律的な制約はあまりなかった」(P180)
少なくとも、朴正煕大統領時代のことを考えるなら、「日本に対するものとは対照的」というのはあたらない気がする。 崔先生も本書の中で言及されているように、日本人観光客相手の売春も特別な許可証を与えられ、かなり自由に行われていたからだ。 そして一般国民はといえば、米軍相手の「ヤンカルボ」も、日本人相手の「キーセン」も、同じように差別し、蔑んでいた。
2,韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか
p190から始まる「韓国人の貞操観念」という章は、大変、面白い。たとえば、「韓国人は性を抑制するために、禁欲するのではなく、謹慎する」(p191)
ここまで、儒教における性を、キリスト教や仏教などと比較して、上手に表した言葉はないのではないか。儒教は謹慎を強いる、それは女性にのみ厳格で、男性には寛容というダブルスタンダードである。性を謹慎するとは、――つまり女性においてのみ、夫に出会うまでは謹慎期間が続く。そして結婚後は夫以外との性は、たとえ夫と死別しても、「永遠の謹慎状態」となる。
ところで、その後に登場する日本人と韓国人の貞操観念の違いについては、少々理解にしにくい。たとえば「冬のソナタ」が例にあがっているが、確かにここに出てくる貞操観念は日本では1960年代までの意識にように感じる。つまり、先生が指摘されるように、日韓で、特に女性自身の貞操意識に「時差」があるのはわかるのだが、それは単に近代化の速度の差なのか、儒教や韓国文化に根ざした意識のせいなのかが、うまく読み取れない。
それはおそらく両方だと思う。
この後半部分については、ぜひ2000年代以降の韓国の変化が書き加えられるべきだと思う。
本書には1995年代半ばの大学生の性に関する意識調査の結果が例として引用されている。私はその頃、梨花女子大の学生たちと同じ下宿で暮らしていいたので、この部分はリアルに理解できる。たとえば、同じ下宿にいた女学生が強姦されたことがあったが、彼女を慰める言葉が「処女膜再生手術があるから、そんなに落ち込まなくていい」という言葉であり、実際に彼女はすぐに手術を受けた。あるいは、日本の女子高生は自転車で学校に通うと言ったら、「そんなことをしたら処女膜が破れるじゃないか」と言われた。
ただ、その後に韓国女性の変化した。2000年代に入ってから、「戸主制の廃止」、「同姓同本の結婚の許容」、「姦通罪の廃止」など、女性に関する法律が矢継ぎ早に改定された。また新生児の男女比率も解消され、今はむしろ「娘がほしい」という声を現実社会ではよく聞くようになった。また、処女膜再生手術よりも、出産後の膣を締める手術が話題になったりもした。そして、昨今のMeToo運動にいたるまで、韓国の女性たちの意識は大きく変化している。
それは表面的なものなのだろうか?
崔吉城先生の著作はいつも刺激的だ。とりあえず、ここまで書いておいて、あとはもうちょっと考えようと思う。