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ゴウガイタイム
ネットオークションに新元号を報じる号外が出品されていた。号外も金で買う時代が来たのか、と驚愕するとともに、自分はこの方法で手に入れることをしたくないなと思った。
4月1日、新元号の発表をわたしは移動中のスマホで確認した。予定より10分ほど遅れて発表された元号は「令和」。あらかじめ予想なんかはしていなかったけど、「昭和」に用いられた「和」という字が入っていたことは意外だった。
「平成」が新しい元号として発表された30年前、わたしはまだ10代で、改元って言ったってピンと来なかった。だけど、ある程度歳を取ったいまのわたしにとって、今回の改元は大きなニュースで、発表の瞬間を待つ間の緊張感はとてもことばでは言い表せない。
号外が欲しいと思い、近くにあった新聞社に駆け込むと、ロビーは既に人でいっぱいだった。ここで号外を配るかどうかはわからない。まわりで待つ人たちもその確証があるわけじゃないけど新聞社なら・・・と思ってここへ集まった様子だった。
号外が来るのを待ちながらスマホでニュースをチェックする人、知らない同士で新元号の感想を言い合う人、実はまだ新しい元号を知らなくて、たまたまそばにいた人に「新しい元号は発表になったんですか?」と聞く人。状況はさまざまだけど、ここにいる人たちはみんな「号外を待つ人」だ。
そんな人たちでごった返すロビーで、わたしは号外はそんなにすぐに配布されないだろうなぁ、と冷静に考えていた。
号外は、速報性は高いとは言え、ニュースが報じられると同時に配布されるものじゃない。速報を確認してから何千部、何万部と印刷し、配布場所まで運搬する時間がどうしたってかかる。
わたしが飛び込んだ新聞社の印刷工場はかなり遠いところにあることは知っていたし、印刷の時間がどのくらいかかるかも想像できた。生憎わたしはこのあと仕事に戻らねばならず、いつまでもそのロビーにいることが出来なかった。
やきもきしながら待っていると、やがて新聞社の職員の方がロビーへやって来て、予定よりも元号の発表が遅れたこと、また印刷工場が離れていることで、号外を配布できるのはこれより30分以上も後になることを説明した。
ああやっぱり。その時間、わたしは会社に戻っていなくてはいけなかったから、号外は諦め、泣く泣くその場をあとにした。
号外がネットオークションやフリマに出品されていることをその日の夜にニュースで見た。とても悲しい気持ちになった。号外はタダでもらえるものだけど、お金に換えられない価値があると思っているから。
今はラジオもテレビもスマホもあって、とてもカンタンに情報を手に入れられる。それこそ新元号は号外をもらわなくたって誰でもすぐに確認できる。
それなのに、あのロビーに集まった人たちは「令和」の文字をスマホの画面で確認しながらも、そして新しい元号にあーだこーだ言いながらも、ひたすらに「もう知れ渡ったニュースが刷られた紙面」を待っていた。全然知らない人たちなのに、みんな同じ目的、同じ気持ちであの場所にいた。
「号外を待つ時間」は、たとえ紙面を手に入れられなくとも、わたしにとっては「幸せな時間」になった。あとからフリマに出されてた号外を買ったところで、あの時間は共有できない。だからこそ、あの同じ場所に「売ること」を目的に待っていた人がいたのかと考えたらぞっとした。
号外を手に入れられなかったことはもちろんとっても悔しかったけど、「号外を待つ時間」を体験できたことは良かったと思う。人生に何度もあることではないし、貴重な経験だった。出品されている号外の紙面を見ても、よし買おうなんて気持ちが不思議と起きなかったことは、平成最後の感慨深い出来事となった。