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写真はプリントしたほうがいい
印画紙にプリントした写真は空いたお菓子の箱に入れてしまっている。近頃じゃ写真はデジカメやスマホで撮ってプリントもしないので、きちんとプリントされた状態で残ってるものは新しくても十年前のもの、まさに「昔」だ。たまに箱を開けて昔を懐かしむのが密かな楽しみだ。
子供のころの家族旅行の写真や学生時代の写真に混じって、父方の婆ちゃんの葬式の写真が出てくる。亡くなったのは今から20年近くも前、わたしが社会に出て働くようになった頃だ。
わたしの地元では、葬儀の際、親族で集合写真を撮る。斎場のスタッフに頼めば気軽に撮ってくれるくらいポピュラーな風習だ。にこりともせず、みんな黒い服で、真顔で。皮肉にも、箱に入っている親族集合の写真はその斎場での写真数枚だけだ。みんな道内にばらばらに住んでいるからなかなか集まることができないのだ。
そして、わたしの写真箱にはなぜか婆ちゃんの若い頃の写真や、父さんや父さんの弟たち(つまり叔父達)の少年~青年期の写真まである。モノクロだったりセピアだったり、かなりの年代物。カラー写真で育ったわたしにとっては新鮮なものだ。これらの写真は、その葬儀の前、婆ちゃんの遺影に使う写真を探している最中、婆ちゃんの「写真箱」からこっそりくすねてきたものだ。
わたしが持っている中で一番古いのは婆ちゃんが26歳のときの写真。サイズはすごく小さいのだけど、スナップ写真というほど気楽な感じではなくて、ちょっと斜に構えてポーズを決めている。たぶん写真館とかちゃんとしたところで撮ってもらったんじゃないかな。セピア色の写真。
父さん兄弟の若い頃の写真もセピア色やモノクロ。集合写真はニコニコ楽しげに写ってるけど、ひとりで写る写真はカメラを構えていたり、汽車の窓にもたれかかっていたり、こちらも凄く決まってる。みんなモデルさんみたい。何と言うか、写真に込められた「特別感」をひしひしと感じる。実際写真は特別なものだったのだろう。どかどか撮って、プリントもせずに忘れてしまうようなイージーな写真とは大違いだ。
あのとき、ここで持って行かなければもう二度と手に入れることができないという思いと、とにかく素敵な写真だから手元に置いておきたいという思いが高まって、写真箱の中に入っていたたくさんの写真の中からほんの数枚抜いて懐にしまった。葬儀前のドタバタでわたしが働いた盗みは、きっと婆ちゃんだけが知っている。
いま、データで残っている写真を見ても、あれほどの「特別感」を醸し出すものは見つからない。ただの記録だ。わたしのなかで、写真はそこまで軽くなってしまったのだ。なくしたりしても心が痛まない程度のものに。
写真はプリントしたほうがいい。プリントをして初めて写真は命を吹き込まれる。古い写真を見ていると本当にそう思えるのだ。