身体的にも疲れているなら、まず休みましょう 必要であれば、対象と距離をとって。 そこまででないことであれば、不安やもやもやを書き出してみてほしい。 例えば、両手いっぱいに荷物を抱えていて身動きが出来ない時みたいに。頭の中もまた、言語化の出来ない考えで、モヤモヤ・ぎゅうぎゅう!といっぱいになっていたとしたら、 ふとアイディアを出したりだとか、パッとひらめいたりだとか、そんな隙間さえなくなってしまう気がするから。いま、頭の中ぎゅうぎゅうしてませんか。 誰にも話せない、話しづら
あなたにとって、安心しきってそこにいられるのはどのような場ですか。それが他者だとしたら、その人達の存在はあなたにとって、緊張や畏縮をせずにいられる相手ではないでしょうか。 他者との関係で安全な場を作り合えるということは、本当に素敵なことです。否定しないとか、認め合えるだとか色々あると思うのだけど。 優しい言葉をかけてほしい、話を聞いてほしい、心を配ってほしい、自分の事を気にかけてほしい…etc。ほしい、ほしいの搾取では、ただのお客さんであり、居心地が良いのは常に片側だけとい
今回はダークサイドでいきます。 綺麗事ではない話、そんなに親しくなりたくないと思う時、丁寧な態度って結構便利よねと感じています。 相手を大切に思うからこその丁寧な対応チョイス、という方がケースとしてはもちろん多いのだけど。それとは別で、あんまり親しくなりたくない!距離を縮めたくもない!と思った時にも丁寧さは有用で。 頑なに敬語を通すとか、必要以上に丁寧に接することで、何度関わっても「初めまして!」みたいな。毎回新鮮!というくらい【親しくない感じ】を演出できます。(今回は嫌なヤ
眠くて仕方がない時ってある。 休みの日に何時間も溶けるように眠ってしまうとか。その最中には「もったいない」とか、「寝てばかりいては…」と思うけれど。 後々振り返ってみると、あの時期は沢山寝ていることが必要だったのだと思えたりする。 スピリチュアルなつもりはないけれど、転職を思い付く前の時期などはよく、病気か?と思うほど日中までも沈むように眠気に引っ張られて大変だったことを思い出す。 全てに意味があるなどと言うと、あやしい感じになるけれど、生活環境が変わる準備のために充電し
若い時などは特に、自分には個性がないという悩みを聞いたり、思ったりもしたものですが。 個性などというワードにつまずく最初は、就職活動でしょうか。 外見の特徴ではなく人間性としての個性に絞って考える時。 “個性的”という言葉の醸すニュアンスの様に独特であったりする必要はなく どんなことを面白いと感じるのか、何が苦手で、また何が好きなのか?“考え方、好き、嫌い、苦手、喜びとなるものetc…” それらを言語化しようとする時。その全部の中にその人らしさや、感性が漂うことを止められな
どうも気が滅入る時期ってあるものです。思い当たる事象のある場合もあれば、トラブルなどなくとも周期的に訪れる上がり下がりのバイオリズムだったり、体調や年齢的な変化によるものだったりと様々ですが。 精神的に追い込まれ過ぎて、配慮をしてくれた相手に対して「ありがとう」という言葉を返すことにすら消耗を感じたことがありますが。 ありがとうを言うのすらキツイとか、些細なことで異様に涙がでるなどという状態は、信号がまもなく赤に変わりますよというお知らせかも知れません。 いま落ちているな
誰かに会いたいなと思って連絡を取ったり、会えて嬉しいと思うこと、親しく関われること。それらは努力でもお金でも買えないことだと思うと 一人ひとりが生まれて世に出ていって、人と出会って。ただすれ違うように終わるご縁も沢山ある中で、仲良くなったり、時間を共有する人がいてくれる事とはとても素敵なことで。 大袈裟なようだけど、誰かに名前を呼ばれて手を振ってもらうだけでも、今この瞬間、ここに居てもいいんだと受容されている安心感を感じる瞬間さえある。 あなたが誰かを前にして、会いたいね!
初対面だとか、関係性の浅い相手と関わる時などは特に。 相手の言葉遣いが雑に感じられたり、言葉遣いがよくないなと感じると、それだけで無意識に心の距離を離そうとしてしまう事がある。これは自己防衛の一種なのでしょうか。相手に対して尊重や配慮をする気持ちを持ち合わせている人物かどうかを、言葉遣いの中に無意識に嗅ぎ分けようとしているのかも知れません。 ささいな会話の積み重ねでも、どんな言葉を選んでいるか、相手にどんな言葉をなげかけるているかによって、水面下でカチカチと人間関係のご縁分け
自分の心、自分で守れてますか。って保険か何かのCMみたいですけども。怪我をすれば、手当をするし風邪を引けば治るよう対応する。身体の疲れなら休んで回復する…などなど。 体力とか体調とか、日々を過ごしていくためのガソリン的な要素が色々あるなかで、心もそれらを構成する大切な要素のひとつだと捉えています。 目に見えないから難しく感じられるし、出来ているのかどうか?実感もつかみにくいところがあり、ある程度は自己暗示で我慢もできてしまう。 本来は赤信号が点滅しているのにそのままにする事も
気分良く雑談のできる時と、なんだかザワザワと好ましくない気分になる雑談があるなと思って。 まあ、それはそうなんだけど、いつも楽しいわけでなくても構わないんだけども。 一つこのパターンあるか、と浮かんだことがある。 「あれが好き、これも大好き!」 好きな事柄の話をしている人は、嬉しそうで楽しそうで、見ているこちらも良かったねぇって、楽しい気分になるもの。 好きの話は、好ましいジャンル。少なくとも私にとっては。 おすすめされるのだって、悪い気はしない。 興味がわいたら調べてみよ
小学生が2周卒業するくらい前のこと(つまり12年ほど前) なんの議題か忘れてしまったけれど、当時勉強していたカウンセラーの先生に、幼い頃から感じていた心の柔らかい部分を吐露し、授業中に涙したことがある。 自分の事なのに、遠すぎて忘れている部分もあるけれど、小さい頃から内に秘めていた寂しさの理由が知りたくて先生に問うてみた。 小さい頃から、家族に囲まれていたとしても、心が独りきりに感じる。 たとえ外出先で、両方の手を家族が握っていてくれていたとしても、そのさなかでさえ心の中
ワタシには、愚痴を言うのは恥ずかしい事だと信じて疑わなかった若かりし日々がある。 20代の頃、今は昔…の新卒で働き出したころ 仕事場で疲れるだの何だのとマイナスな発言をする親ほど年齢の離れた人達を見て ネガティブな発言をするのは恥ずかしい事で、格好悪い、仕事なのに!と見下していた時期がある。 私も若かったな、当時!と思えるのは今だからこそで。 当時は、ああなりたくないと心底思い 疲れていても、「大丈夫です!平気です!&頑張ります!」みたいな感じで毎日を過ごしていた。 ・
学校とか習い事とか職場とか 馴染んだ空気が出来上がったところに、“新しい人”が入って来た時の独特な違和感ってある。 慣れていた いつも に見慣れない周波数が混ざり込むあの感じ。悪気なくお互いに疲れてしまうあの感じ。誰も悪くはないと分かってる。だけど疲れる、あの感じ。 性格的に平気な人は別として、人見知りであり変化が苦手な世界線の住人である私が それらが昔ほど苦手ではなくなってきており、どのように捉えようとしているか?について書いてみようと思います。 自分から心を開くとか
6月に連休を取り、久しぶりに両親と数日を過ごした 時間の中で、気が付いた事について書いておこうと思います。 ーーーーーー 時おり訪れる、両親のバチバチした空気に遭遇するにつけ、娘としては何だかなあ…という思いがあり。(どうかバチバチしないでほしいと。ストレスでボケたりしないか心配。) なぜたった数日の中で、何度も雲行きが怪しくなるのだ!!と。 平穏のみを願って帰ってきたのですが。 帰って来てから、はたと気が付いたことがあります。 親に対して感じる「なんだかなぁ~」の部分
私とPMSという、ごく個人的なことを書いてみようと思います。 PMSとは?という事については、どうぞお一人お一人でお調べ下さいませ。 その単語を知って、これだ!これが私のアレだ!と。そうハッキリと分かったのは、ほんの数年前のことで。 ただ、始まりはもっと前のこと。 私の身に「それが起こった」日のことは、今でも覚えています。 ーーーーーーーー 社会人になって数年という頃。 両親が海外旅行先で、私や姉達へネックレスを買ってきてくれた日のことです。 それぞれのデザインを
ケースバイケースでしょうけれど、 周囲に譲り過ぎず、自分の意見やこだわりを大事にした方がいい時って沢山あると思うのですが。 それとは別で、信頼して任せたり、新しい提案を受け入れてみること。新しい提案に対して自らを開いてみる勇気。そんな方向性の態度が功を奏すことも沢山あると思っていて。 特に変化したいと思う時には、後者の態度が適しているんじゃないかな?と考えているのです。 抽象的なことを言うけれど後者の「信頼して任せる」という事柄について、ごく個人的な考えを書いてみました