無知の罪と、理解とは
人を心配することと、
理解するというのは異なる。
あなたのためを思うから、
こうあった方がいい。
それを私が望まない場合、
果たしてそれは助けなのか?
例え、私が破滅することが望みだとして
阻止することは果たして助けか?
相対的に同じ条件にならなければ
最適解を生み出すというのは、
非常に難しい。
「死にたい」
この苦しみを味わったことがある人が
どれほどいるのか。
彼らを救う唯一の方法は、
死を止めることではない。
彼らになることだ。
噛み砕いていうと、
相対的に同じ条件となること。
同じ状況となり、
初めて理解ができるようになる。
その理解がなければ、
全ての助けは意味を成さない。
理解のない助けは、同情は愚か、
傷口に深い傷を負わせるだけ。
今まで精神的な話でしてきたが、
別の病気に置き換えると容易な話だ。
仮に深い骨折をして
痛くて動くことができないとする。
そんな人に対して、
リハビリで歩こう!と言う。
それは助けなのか??
骨折に理解がないと言うだけで
こんなにも愚かな結論に至るのである。
精神的な病気がある人には、
手首を切ったり、薬を飲み過ぎたり、
常人では理解できないようなことを
してしまう人もいる。
骨折などの外部的要因の病と違い、
精神的な病は可視化できないため、
なぜそのような行動になるのか
推測するのはかなり難しい。
しかし、彼らにとっては、
それが精神の病気がもたらすものなのだ。
手首を切るのを辞めるように言うのは、
骨折中に無理矢理動かせというのと同義なのだ。
では、他人はどうするべきなのか。
必要なのが理解である。
全く同じように、
病気になれというのではなく、
可能な限り、
病気そのものを理解するよう努める。
残念ながら今の日本には
精神疾患について理解ある者が少ない。
それ故、協力が得られずに、
傷つく者も少なくない。
更に精神的な病は
治療に年単位かかることもある。
そのために、治療するための
最高のパートナーを見つけるのは
ほぼ、不可能だろう。
だから、自殺してしまうのだ。
もし、
あなたが本当の良い人だというなら、
人を救いたいと思っているなら、
自殺する前に、甘やかしてください。