見出し画像

この人生きづらそうだな、と思った話。

知人Aさんと雑談していた時のこと。

Aさんは学校Bについてこんなことを言っていました。

「Cさんが学校Bは自習が多くて授業料がもったいないって言ってた」
「Dさんも学校Bに通わせて時間の無駄だった、って言ってたよ」

そうなんですか、へぇ~、なんて、話を聴いていたのですが。

そのあと、話題にのぼったCさんとお話しする機会がありまして。

Cさんと私は、結構バキバキに腹を割って話せる友人なので

「そういえばCさんがこんな風に言っていた、とAさんに聞いたんだけど、どうなん?」

と、雑談の流れで何気なく聞いたんですね。

するとCさん、「ああ~」と苦笑いしながら、「そう切り取るか~」って。



どうやらCさんは、学校Bの「ネガティブな面」だけを主張したわけでも、「学校B最悪!」と言ったわけでもなく、学校Bについて「ポジティブな面」を述べた上で、学校Bの「ネガティブな面」についても話したそうなんです。

でも、なんでか、AさんはCさんの会話の

「ネガティブな面」

だけを切り取って、まるでCさんが学校Bが心底イヤだ!と言っているかのように私に伝えてくれたんですね。


なんか、YouTubeの切り取り動画職人みたいだなぁ、と。

「学校Bは最悪!」というストーリーになるように話を切り取るとこうなる。
Dさんももしかしたら、Aさんから聞いたほど「学校B最悪!」と思っていないのかもしれない。
やっぱり、人から聞いた話をうのみにしないって大事だねぇ。(しみじみ)



そう言われてみればAさん、普段雑談する時でも「なんか強火」な感じがします。

なにが強火かというと

あの人がこう言ってきたから、こう返してやった
●●のここが最悪だから、闘ってやった

みたいに、なんか好戦的だなぁと。
前世は騎馬民族だろうか。いや、騎馬民族のこと良く知りもしないくせに失礼なんだけども。



自分の信念やルールがあって、それに当てはまらない人や出来事は「間違っている」とジャッジしたくなったり、その信念やルールの裏付けにならない情報はスルーされちゃったり、するのかな。


なんだかすこーしだけ、生きづらそうだな、と思ったんです。
余計なお世話、ですけれども。

だけど、毎日血気盛んに、ネガティブなことにばかり心を遣っていたら、ある日突然血管がプチンと切れるがごとく、心の糸がプチンと切れそうな気がする。

そんなことを、考えました。


どんな動画を、つくりたい?

人は自分のことにしか興味がない、なんて言われています。

普段その人がどんな面を「大事だと思っているか」によって、こうも情報の切り取られかたが変わるのか、とすごく興味深い体験でした。

もともと人の思考のうち9割が「ネガティブな思考」なんていう説もありますので、ネガティブ寄りになるのは別に悪いことではないんです。

例えば、「この先どうなるんだろう?」と不安に感じるから、最悪の未来を避けるための準備ができる、とも言えますよね。
ネガティブが私たちを生かしてくれる時もある。


その上で、あまりにも「ネガティブな面」ばかりを切り取ってしまうと、自分の周りの世界が「ネガティブな世界」になってしまいそうな気がします。


良く、「物事の良い面を見よう」というアドバイスを耳にしますが、令和風に言うならば

今、自分が「どんな『切り取り動画』をつくろうとしているか」

と、妄想してみるのもありなのかも。


YouTubeならぬMytubeには、

今、どんな動画がストックされている?

その動画がストックされているチャンネルって、はたから見たらどんなチャンネルだろう?

これから、Mytubeをどんなチャンネルにしたい?

新しいMytubeにはどんな動画がふさわしい?

そんな風に「動画編集者」になったつもりで考えてみると、自分が切り取る情報が少し変わってくるのかもしれない。


ネガティブな情報のほうが心そそられるかもしれないけれど、ネガティブな動画ばっかりのチャンネルは、きっと心の平穏はもたらしてくれない。

私は、後で見返した時に思わずくすっと笑えてじーんとくる、やさしい
チャンネルにしたいなぁ、と思うのです。
子育てに限らず、人間関係でも。


あの人のあそこが嫌だった!
というよりも

あの人のあそこが自分と違いすぎて面白かった!
みたいな。

そんなことを、ぼんやり考えた出来事でした。

それでは、また。

いいなと思ったら応援しよう!