ありがとう、横浜DeNAベイスターズ
2024年11月4日 ベイスターズの日本一を受けて
2024年11月4日(日)、家族旅行で妻の両親や親戚と共に訪れた那須白河の地にて、私は横浜DeNAベイスターズの26年ぶりの日本一の瞬間を見届けた。私を除いて誰1人ベイスターズファンのいない福島県の焼肉屋のテレビを占有して観た筒香のホームランや桑原のタイムリーは、この先も忘れることがないだろう。
私がベイスターズのファンになったのは2003年、小学4年生の時だ。今では朧げな記憶だが、インターネットで調べると2003年8月10日が私の観戦デビュー日のようだ。試合内容はさておき、横浜スタジアムの3塁側スタンドに入って行く光景と、ベイスターズファンの叔父に当時の主力選手である鈴木尚典のサインボール(レプリカ)を買ってもらったことは、今でも鮮明に記憶している。鈴木尚典と石井琢朗のどちらのボールを買ってもらおうか、悩みに悩んだ末に選択したことも覚えている。
以来、私はすっかりベイスターズの虜になった。その理由は簡単、地元である横浜のチームだからだ。しかし、通っていた横浜市立の小学校には巨人や阪神のファンが多かった。友人になぜ地元であるベイスターズのファンではないのかと尋ねると、「弱いチームは応援したくない」との答えが返ってきた。日本一になった1998年から5年程度しか経っていないにも関わらず、ベイスターズはすっかり最下位が定位置のチームになってしまっていたのだ。
無論、2003年からベイスターズファンになった私は1998年の日本一を体験していないし、当時の記憶もない。私の知るベイスターズは、いつも順位表の一番下に名前が書かれているチームだった。低迷の時期は長く、クライマックスシリーズへの進出はおろか、5位になることも夢のような状態だった。順位表の右側に記載される上位チームとのゲーム差など、気にしたことがなかったほどだ。
「こんなチーム、もう応援しない」「ファンをやめる」と何度思ったことだろう。ハマスタに観戦に行っても大体は負けるし、エラー絡みの大量失点などよく見る光景で、何の珍しさもなかった。周囲の野球ファンからは馬鹿にされ、チームに期待すればするほど裏切られたという気持ちになることも多かった。言葉を選ばずに表現してしまうと、当時のベイスターズは完全に日本プロ野球の「お荷物球団」であったと思う。
それでもなぜか応援してしまう不思議な魅力がベイスターズにはあった。その魅力の一つは、現在の監督であり当時のエース、三浦大輔にあった。ファンから「番長」の愛称で親しまれる三浦は、まさに「男が惚れる男」と言った感じで、私の憧れであり続けてくれた。この時期のベイスターズは常に先発ローテーションの頭数が揃わない状況で、三浦が投げたら次の三浦の登板機会までは勝てないとファンが冗談を言い、それが現実のものになることもザラだった。三浦が孤軍奮闘の働きを見せても、野手陣が足を引っ張って勝ち星がつかない試合も多かった。とにかく三浦の努力が報われず、チームは先の見えない暗黒期の真っ只中。三浦が他のチームへの移籍を希望するのではと不安になるファンが大多数を占めていた。
そんなファンの不安が最高潮になったのは2008年のオフ、三浦がFAの権利を取得した時だ。関西出身で阪神ファンの父親を持つ三浦に対して、阪神タイガースが熱烈なラブコールを送った。三浦の阪神移籍は秒読みと報道される中、当時中学生の私はハマスタで開催されたファン感謝デーに足を運んだ。今と比較すると圧倒的に少ないファンが、三浦に残留してほしいと必死に言葉をかけた。数日後、三浦はベイスターズへの残留を決めた。チームにとって、ファンにとって、三浦本人にとって、言葉では表現できないほど大きな選択だったと思う。なぜ残留を決めたかとの問いに三浦は「ファン感謝デーでもらった声が胸に響いた」「ベイスターズで強いチームと戦って勝ちたい」と答えた。この三浦の決断が横浜に与えた影響は計り知れない。俺は横浜の三浦大輔。後年、テレビのインタビューで「強いチームならもっと勝てたのでは?」と質問を受けた三浦はそう答えてその仮説を否定した。
長く続いたベイスターズの低迷期において、最も深刻な時期だったのは2008年から2012年までの5年間であろう。この時期、ベイスターズは常に最下位だった。ただの最下位ではない。圧倒的な最下位だ。中日ドラゴンズの監督だった落合は「横浜戦が一番難しい」と述べた。どのチームもベイスターズには勝って当たり前なので、負けた時には他チームとの差が開いてしまう、だからこそ必ず勝たなければならないという意味である。チームとしてやることなすことが全てうまくいかない。打てない、守れない、走れない。ハマスタのスタンドはガラガラ。村田や内川といった主力選手も、巨人やソフトバンクなどの強豪チームに移籍していった。
三浦の残留に心を打たれたベイスターズファンは村田や内川を批判した。彼らが巨人やソフトバンクのユニフォームを着てハマスタに帰ってきた時、球場は大きなブーイングに包まれた。弱いチームを見放した非情な選手といったレッテルを貼ったのだ。私は当時からファンのこうした姿勢には疑問を抱いていた。むしろ村田や内川はプロ野球選手として当然の選択をしたまでだと考えていた。三浦が特別なだけで、こんなチームに残ってくれる選手はいない。強豪チームの優勝の輪の中にいる村田や内川は一際輝いて見えた。
ファンとして半ば諦めの境地に達していた当時の私でも大いに憤慨し、許せなかったことがある。それはチームの功労者である選手を簡単に解雇する球団の姿勢であった。中でも最も顕著だったのは、1998年日本一の際の1番ショートであり、2000本安打も達成した石井琢朗の扱いだ。ミスターベイスターズとも呼ばれたこの選手のクビを、球団はさも当然かのように切った。せめて横浜スタジアムでベイスターズファンにお礼がしたいと言った石井の申し出にも球団は応えず、石井は自費でハマスタを予約してファンに向けたイベントを開催した。石井は広島カープに移籍した。運命のいたずらか、2012年に石井は様々な思いが詰まったハマスタで現役最終打席を迎えた。カープファンとベイスターズファンが一体となって石井を応援した。広島に移籍した後も石井の応援歌はベイスターズにいた時と同じものが使われた。名曲と名高い応援歌がスタンドから流れ、ハマスタの左打席に立つ石井は赤いユニフォームを着ていた。今でも思う。琢朗にはベイスターズのユニフォームを着て引退してほしかった。ファンとして申し訳なく、不甲斐なかった。
このチームのファンが減るのは当然のことだった。ハマスタのスタンドには空席が目立つ。選手もファンもモチベーションを保つのが難しい状況にあった。そんな中、当時のオーナー会社であるTBSが球団を売却するとの報道が出た。最初に手を挙げたのはリクシルだった。リクシルの球団構想が世に出た時、私は青ざめた。新潟や静岡に本拠地を移転するものであったからだ。結局、この売却の話はご破産になった。私は胸を撫で下ろしたと同時に、横浜から球団がなくなってしまうかもしれないという可能性に衝撃を受けた。
翌年、また球団売却の話が浮上した。今度はより本格的に話が進んでいるとの報道だった。De NAという聞いたことのない企業が買収に名乗りを上げていた。モバゲーというゲームアプリの運営などを手掛けるIT企業らしい。一部では「横浜モバゲーベイスターズ」というチーム名まで報道されていた。周囲には様々な意見があったが、もう何も失うもののないこのチームにDeNAが変革をもたらしてくれることを祈る他なかった。2012年、DeNAベイスターズになった初年度もチームは5位に大差をつけられての最下位だった。新たに監督となった中畑だけにスポットライトが当てられ、阪神タイガースの金本から、「監督が一番目立っているようではダメ」と引退試合でダメ出しを受ける有り様だった。
私が大学に入学した2013年から少しずつチームが変わり始めたように思う。この年のベイスターズは打撃成績がリーグトップ、投手成績はリーグワーストという極端なチームだった。打たれても打ち返せばいい。暗黒時代から強引に抜け出そうとする音が聞こえた。モーガン、ブランコ、中村紀洋というクリーンナップが強力で、7点差を逆転する試合をシーズンで3回もやってみせた。大差の試合でも諦めない中畑イズムはこの時期に浸透したのだと思う。この年、ベイスターズは5年ぶりに最下位を脱出し、5位になった。ベイスターズのファンになってから10年間で8回の最下位を経験してる私は、5位という数字に狂喜した。この時期の私に今の日本一のチームのことを伝えたら、どんな反応をするだろうか。
大学生になって時間に余裕ができた私は、頻繁にハマスタに足を運ぶようになった。中高生の時はいつも父親と観戦に行っていた私にとって、ベイスターズファンの友人がたくさんできたこともその追い風となった。横須賀の二軍戦もよく観に行った。私という人間の中でベイスターズの占める割合が大きくなっていくのを感じた。そのパーセンテージが最も大きくなったのは大学4年生になった2016年だった。
2016年、ベイスターズは大きな転換期を迎えた。12球団で唯一クライマックスシリーズに進出したことがなかったベイスターズ。ファンにとっても「CS」の2文字は縁遠いもので、まさに夢の舞台だった。この年に監督に就任したラミレスがチームをそのCSに導いた。原動力となったのは間違いなく筒香だった。暗黒期真っ只中にドラフト1位でベイスターズから指名を受け入団した筒香は、ファンの希望だった。名門の横浜高校で1年生から4番を打っていた筒香は、プロ入り後その潜在能力の高さを所々で見せつつも、思うように成績を残せていなかった。その筒香がこの年覚醒した。キャプテンとしてチームを引っ張り、ホームラン王や打点王を獲得、誰しもが認める日本球界最高のバッターになった。ファンがまだ見たことのない景色を筒香が見せてくれた。9月19日、ベイスターズはAクラス入りが確定し、CS進出を決めた。
9月20日、就活も終わり、授業もなく、すっかり大学生の身分を満喫していた私は昼過ぎに起床した。スマホにはYahooのニュース速報が写し出されていた。「ベイスターズ三浦引退」CS進出の喜びはたった1日で別の感情に変わった。
私が小学生の時、巨人のエースピッチャーは上原だった。その後は内海がエースになり、菅野が後に続いた。阪神は井川→能見→メッセンジャー、中日では川上→吉見→大野、長年ベイスターズの1つ上の5位だった広島も黒田→大竹→前田と、私が小学生から大学生になるまでに順調に世代交代が進んでいた。ベイスターズは10年以上、ずっと三浦がエースピッチャーだった。三浦の対抗馬になる選手すらいなかった。私にとってベイスターズのピッチャーと言えば三浦だった。球場には18番のユニフォームを着て行った。チームのことは否定されてもよかったが、三浦を否定されるとどうしようもなく腹が立った。150勝目を達成した試合のヒーローインタビューで「横浜に残ってよかった」と三浦が言った時、野球を観て初めて涙を流した。そんな三浦が引退するという意味をすぐには理解できなかった。
引退会見で三浦の背番号18番を半永久欠番とすると球団からアナウンスがされた時、涙が止まらなかった。そこには功労者に不義理を働く球団の姿はなかった。最大級のリスペクトを持って、最大級の功労者を労う姿勢を見た時、DeNAが球団オーナーになったことへの感謝が溢れた。三浦の引退試合のチケットが、雨の関係で急遽販売されることになった。大学に近い神保町のセブンイレブンの券売機の前で発売開始の時を待った。友人と合わせて3人分のチケットを手に入れた。それだけで感慨深かった。
三浦の引退試合はこれまで現地で観戦した試合の中で最もすばらしいものだった。左右に座る友人のことは忘れて泣いた。選手全員の背番号が18番になっていた。最後のバッターから三振を奪い、監督がベンチから出て交代を告げた時、もう三浦が投げている姿を見ることができないという、寂しく、受け入れ難い感覚に襲われた。私の知るベイスターズには常に三浦がいた。CS進出と同時に三浦がいなくなる。一つの時代が終わる。こんなにも人の愛を感じる試合に立ち会えたことを幸せに思った。DeNAベイスターズのファンであることを心から誇りに思った。
3位チームとして敵地東京ドームに乗り込んだベイスターズは、巨人を倒してファーストステージを突破した。ファイナルステージでは広島カープに敗れたものの、それまでは見ることができなかった光景に多くのファンが感動して涙を流した。私にとってのベイスターズは三浦の引退とCS進出の以前以後で大きく印象が変わることとなった。
2017年シーズン、ベイスターズは前年と同じく3位となり、CSに進出した。なんとこの年、ベイスターズはCSファーストステージ、ファイナルステージを突破し、日本シリーズに進んだ。私にとって初めての日本シリーズだった。相手はパリーグ王者のソフトバンク。圧倒的な戦力差があった。3連敗からスタートした日本シリーズ、このまま終わるかというところから2連勝して臨んだ第6戦、ベイスターズの夢を打ち砕いたのは内川だった。古巣相手に打ったホームランには、「お前たちはまだまだ」というメッセージが込められているように感じた。
CSや日本シリーズを経験した私は、シーズンで Aクラスに入るだけでは満足できなくなってしまった。最下位が当たり前だったベイスターズを応援したきたのに、すっかり贅沢になってしまったものだ。ハマスタのチケットはいつの間にか入手するのも困難な状況になっていた。12球団で最も観客動員数が増えたチームになった。その応援の熱もナンバーワンと言われるようになった。DeNAがファンを変えた。負けて当たり前という空気は消えてなくなった。
2021年シーズンから三浦が監督になった。三浦監督の胴上げを見たいという気持ちが、ベイスターズを応援する最も大きなモチベーションになった。優勝になかなか手が届かずに迎えた2024年シーズン、大きなニュースが飛び込んできた。メジャーリーグに挑戦していた筒香が日本に復帰する。問題はその移籍先だ。「筒香巨人入り確実」の報道がされた時、なぜか私はそんなはずはないと確信していた。DeNAは必ず筒香を呼び戻すし、筒香もそれに応えると思っていた。何の根拠もない。根拠のない自信があった。数日後、筒香はベイスターズに復帰した。
実戦から離れていた筒香は二軍での調整からスタートした。横須賀スタジアムの二軍戦にも足を運んだ。筒香の一軍復帰初戦、2点ビハインドで迎えた8回裏、一発出れば逆転という場面で筒香は逆転スリーランを打った。私のよく知る筒香だった。ドラマを起こす男が帰ってきた。
2024年、ベイスターズはシーズン中盤の大型連敗で優勝争いから脱落した。Aクラス入りも難しい状況だったが、8月以降大きく負け越した広島と入れ替わるようなかたちでベイスターズは3位となった。シーズンの貯金は2だった。
そこからのベイスターズの快進撃はここに記すまでもない。CSファイナルで巨人に逆王手をかけられた時、日本シリーズでソフトバンクに2連敗をした時、多くのプロ野球ファンがベイスターズの敗退を予想した。ベイスターズはその声を一蹴した。筒香や桑原のような苦しい時代を知る選手達がチームを鼓舞した。中畑が養った諦めずに跳ね返す力がここで発揮された。三浦の采配がズバズバ当たる。シーズン貯金42のソフトバンクを相手に貯金2のベイスターズが見せた史上最大の下剋上だった。下剋上という言葉がこれほどまでに似合うチームがあっただろうか。
三浦監督の胴上げを見た時、感慨深かった。三浦の側には石井琢朗コーチがいた。鈴木尚典コーチがいた。筒香がホームランを打ち、4打点を上げて試合を決定づけた。テレビ中継の解説席で中畑が泣いていた。過去が清算され、未来に向けて動き出す足音が聞こえた。来年はリーグ優勝してまた日本一になる。チャンピオンになった直後に三浦やキャプテンの牧が宣言した。現状に満足せずに上昇志向を持つチームを見て、本格的なチームの変革を感じた。
ベイスターズは私にとって「彩り」だ。ベイスターズが勝っても明日の憂鬱な仕事がなくなることはないし、悩みが消えるわけでもない。長く苦しい低迷期も経験した。それでもずっとベイスターズが好きだった。ベイスターズは私の人生を明るくしたり暗くしたりした。ベイスターズを応援することは、巨人などの強豪チームを応援することとは異なる性質を持っていると思う。勝つことが至上命題の強豪チームのファンであれば、きっといい思いがたくさんできるだろう。でも強豪チームのファンには理解できないことがたくさんある。それを言葉で表現することは極めて困難だ。あえて言葉にするのであれば、客観的ではなく主体的、受動的ではなく能動的。この感覚を共感してもらえるベイスターズファンが多くいることを確信している。