人間関係には4つのレベルがあるという仮説
人生最大の失敗から話は始まる
愉快な話ではないからぶっきらぼうに書きます。
後述するレベルで言うとせいぜい「知人」だった人と、勢いで会社を立ち上げた。僕はその人との関係性のレベルを「仲間」まで引き上げないといけないと思っていたが、相手は「友人」でい続けることに固執した結果、関係がズタズタになり、最後は訴訟沙汰にまで発展した。
あの地獄のような日々は僕にとって強烈なトラウマとして、そして大事な教訓として胸にくっきり刻まれている。
前置き終わり。
それ以来、僕の仕事の姿勢には賛否がある
その後、何社か(といってもそのほとんどがスモールビジネスだが)の経営に参画しているが、その時に僕が強く意識しているのが、その仕事を友達同士の仕事ごっこにしてしまわないこと、だ。
結果、僕のビジネス上のコミュニケーションのスタイルは
・なあなあな空気を許容しない
・耳が痛い話をすることもためらわない
・ミスや失敗は許すし原因の追及は歓迎する、が言い訳は許さない
・細かいビジネスマナーや常識の欠陥はしっかりと指摘する
・その代わり自分の非はしっかり認めて反省するし、言葉にして謝る
…と、身近な人からすると多少苛烈な部分が見て取れるものになっている。
それに対してOKな人もいれば、NGな人もいるようだ。
とりわけ、日ごろ研修講師やビジネスコーチ、あるいは駆け出しYouTuberとして人当たりの良い面を見せている僕とのギャップを感じて恐怖を覚える人が多い。
が、僕は僕なりの信念でこのスタイルを貫いている。そしてそのスタイルは、後述する「人間関係の4モデル」という自分なりの仮説に拠って立つものだ。
人間関係の4レベル
非常に大雑把なモデルで仮説の域を出ないが、僕にとっては大事なモデルである。身の回りの人たちとの人間関係をレベル分けしたとき、この4つにたいていは収まる(なお、例外はある。それについては後のほうで述べる)。
レベル0 他人
会ったことがない、あるいは会ったことがあってももう覚えていないのは「他人」。片方が覚えていても、他方が覚えていなければ人間関係としては成立しないので、他人とみなすべきだろう。
他人=コミュニケーションが成立しない関係
レベル1 知人
会ったことがあり、そのことをお互いが覚えていたら「知人」になる。「知人」のレベルでは協力して何かを成し遂げることはできないが、人間関係のスタート地点は「他人」から「知人」になるところがまず起点となる。
レベル0からレベル1に上がるのは簡単だ。お互い挨拶をすれば良い。そして、お互いの記憶が定着すれば、会えば挨拶を交わす程度にはなる。さもなくば、お互い忘れ去ってレベル0に逆戻りするが、それくらいの浅い人間関係は実は日常にあふれかえっているし、それ自体は悪ではない。
知人=表面的なコミュニケーションを交わすだけの関係
レベル2 友人(顧客)
そして、知人の中から、世代や地元、趣味や仕事などの共通項を持っている人が現れるようになると、その人たちとの交わりが徐々に密なものになっていく。これが「友人」である。友人との関わりはストレスがなく、とても楽しいものだ。いわば人間関係のコンフォートゾーンがこのレベルに存在すると言っても良い。
プライベートな場であれば、レベル1からレベル2に意図的にランクを上げる必要は実は乏しく、人付き合いを続けていればある程度の確率で自然とレベル2になる人が現れる。
が、ビジネス上の人間関係のうち、主に顧客との関係はこのレベル2の状態を保持することが望ましいともいえる。アポイント時にアイスブレイクを行ったり、自己紹介タイムでパーソナルな自己開示をしたり、時には飲み会などのインフォーマルな形で時間を共有することが有益とされるのは、そのためだ。
そして、実は特徴的と言えるのが、この友人関係で交わされるコミュニケーションである。人間関係のコンフォートゾーンであるがゆえに、そこで交わされるコミュニケーションの多くは「お互いが友人同士でいられることを目的としたもの」になっていく。裏を返せば、絶交される恐れのある内容の話は避けるのが、このレベルでのコミュニケーションの特徴でもある。
お互い言いにくいことは言わないし、耳の痛い話を聞きたくはない。そうやって、危ういバランスで成り立っているのがこの「友人」という関係なのである。なお、言うまでもないが、そうやって円滑な人間関係を作ることは何ら悪ではない。友人を大事にしようと思ったら、そのバランスの維持に最大限気を配るべきだ。
友人…関係性を維持するためのコミュニケーションが行われる関係
レベル3 仲間
レベル2「友人」の中から、さらに一部の人がこのレベルに到達することがあるが、なかなか容易ではない。
友人関係がお互いの良好な関係性を維持すること自体を目的とするのに対し、仲間とは、それ以外の共通の目的を共有した間柄である。英単語にすると分かりやすいかもしれない。Friendではなく、Partnerと呼べるのがこの仲間である。
気が合う仲間とバンドを組んでみるとうまくいかなかったり、
恋人と同棲してみるとうまくいかなかったり、
起業してみたら裁判沙汰になったり(僕です)
そういうことが多いのは、レベル2とレベル3とではコミュニケーションの質が大きく異なっているからである。
友達同士なら「歌うまいね」「ギターかっこいいね」で済む会話も、バンド仲間になれば「もっと練習しろよ」と言わなければならなくなる。いや、バンドなら楽しければいいという選択肢もあるだろうが、生活や事業を成り立たせようと思ったら、言うべきことは言わなければいけないという局面が必ず存在するのである。
また、レベル3に至るには、必ず超えるべき「壁」が存在するのも特徴の一つだ。レベル0→レベル1→レベル2という人間関係は、前述の通り自然発生的に出来上がる部分が大きい。しかし、レベル3は違う。
「一緒に〇〇やらない?」
このレベル3へのオファーを受諾した時点で、仲間関係は一応スタートする。
…ただ、その仲間関係の意味するところにメンバー全員が納得できていないと、その人間関係にはヒビが入ることになる。
話を戻そうか。
ここに羅列したようなコミュニケーションのスタイルは、「僕たちはもはやレベル2のままじゃいられないんだよ」という投げかけを含めていることによるものである。
たまに、「あのバンドのギターとボーカルは仲が悪い」というゴシップが話題になることがあるが、それでも良い音楽を作れているなら、レベル3の人間関係の構築には成功していることになる。…当人たちがどんな気持ちなのかは分からないけど。
ともあれ、一緒に何かを成し遂げようと思った時、お互い言うべきことを言える空気を作ることは必須だと僕は思っている。だからこそ、共にレベル3に踏み込んでくれた相手には、目的達成のためなら何でも話す、をモットーにしているのである。
仲間…言うべきことを言い合える関係
レベル3に身を投げ出す勇気をどこで作るか
こういったスタイルを貫いて、もうすぐ丸5年がたつ。
結果として続かなかった関係性もいくつもあるが、結果として少しずつ、大きなことに取り組むことができるようになってきた。自分の確立したスタイルが最適解かは分からないが、ある程度の妥当性があることは確かだと思っている。
ただ、これを真似しようとしても勇気がいると思う。何といっても、ほかならぬ僕自身が、実は言うべきことを言う時にためらいを覚えている。それでも、エイっと踏み込んだ発言ができるのは、以下のような環境で僕が「勇気」をもらっているからだ。
勇気の源① レベル2に戻ってこられる仕掛け
仕事上のやり取りを頻繁にする相手とは、仕事外でも話す時間を持つようにしている。これによって、仕事がうまく進まない時にこそ必要なお互いの信頼関係を高めることができる。
僕は酒好きなので飲み会が欠かせないが、多分なんでも良いはずだ。ゴルフの人もいればサウナの人もいるだろう。
勇気の源② レベル2に戻ってこられるマインド
これは心構え的な話に聞こえるかもしれないが、レベル3に一緒に踏み込んでくれた仲間を、無条件に「好き」でいることが実はすごく大事だと思っている。
これを「好きでもない相手」に言うとなるとかなりキツイ。それどころか、場合によってはハラスメントと言われそうである。でも、大好きな相手に向かって選ぶ言葉なら、毒気はずいぶん抜くことができる(僕がこのスタイルで苦渋をなめた経験のほとんどが、人間関係を温めきれずにこれらの発言に踏み込んでしまったものである)。
尚ちょっと余談だが、仕事上の人間関係は、レベル1から一気にレベル3に行くことが多い。だからこそ細かな発言がハラスメント扱いになるのだろうと思うが、僕のようにフリーランスっぽい生き方をしていると、1→2→3の順序は守りやすいし、絶対に守らないといけない。もし何らかの理由で1→3とスキップしてしまった場合は、後付けでも良いからレベル2の関係性を組み立てることが大事だと思っている。
勇気の源③ レベチの人間関係=家族の存在
先ほど書いた「無条件に『好き』でいる」のって、容易じゃないように思えるかもしれない。が、実は、多くの人はこれを産まれながらに享受して生きている。
そう、親だ。
大抵の人間関係は上記の4つのレベルに収まると書いたが、そこにどうしても収められない存在、それが家族だと僕は思う。生まれたばかりのころの僕らは、ところ構わず泣き喚き、糞尿を垂れ流しているだけなのに、僕らは愛されていたのだ。そんな人間関係を、先ほど挙げたレベル分けになど収められようはずがない。
レベル3まで築き上げようとした人間関係が脆くも崩れ去ってしまいそうになる時、途方もない無価値観に襲われ、この世から消えてしまいそうになるほどの衝動に耐えなければならなくなる。まさに、元ビジネスパートナーから訴状をもらった時の僕がそんな気分だった。
忘れもしない。あの頃、ただ一度だけ、親にお金を無心した時に言われた言葉。
最悪、すべてがバラバラになっても、自分には見守ってくれる存在がいる。それが、一番の根本的な支えになっている。僕にとって、それは家族だし、それはほとんどの人に当てはまるものだろう(が、家族じゃなくてもそういう存在は見つけられるのかもしれない)。
僕があの悲劇から立ち直ったあげく、このスタイルを築き上げられたのは、トラウマを避けたい思いからではなく、この時否応なく感じた、親の持つ無限の愛情にこの上ない安心感を覚えたから、だともいえる。
そして気づけば僕もまた人の親になった。おむつの中身を見て「お~、ウンチいっぱい出たね~よかったね~」と喜ぶ側の人間になってしまった。
この子にもいずれたくさんの出会いと別れが訪れるのだろうけど、おやじがしてくれたように自分も、ちゃんと心のよりどころを作れる、そんな人間になりたいと思いながら、今日も僕は思い切って「言うべきこと」を言い続けるのである。