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山岸隆氏の命日に思う事 その1

この季節になると、必ず書きたくなる事がある。10月14日は、パーフェクトハーモニー研鑚会創始者、山岸隆氏の命日である。

普段はあまり、もうパーフェクトハーモニーの事を思い出す事も少ないのだが、この日が近づいてくると、なぜか、山岸隆氏の事に関連した事を思い出したりする。
2006年10月14日は雲州堂ジョイントセッションの日で2007年10月14日は東京のMMエナジークラブで正に、エネルギーでの頭蓋仙骨調整法を教えていた。今年の10月14日は、わりにぽけーっと過ごしていた。

この時期が近づくと、当時の事をいろいろと思い起こし、そういえば会長の命日もうすぐやったなぁ、と気付いたりする。やっぱり、彼のエネルギーが、何かをわたしに告げているのではないかと思うような、そんな気付きがあったり、体験があったりする。
山岸会長が、最後に入院していた時に、多くの会員が会長に遠隔ヒーリングをしていた。わたしももれなくその一人だったのだが、会長はなぜかエネルギーを送られる事をすごくいやがっていて、「エネルギーは送らないで下さい」と会の中でおふれが出た。
エネルギーを研鑚する会でエネルギー至上主義的な空気もある中で、しかも会長はエネルギー最高!と日々教えておられたはずなのに、なんで??とその意味がわからなかった。
そのことは、本当に今年の夏ぐらいまで、わからなかったというか、わかっていなかった。
何か身体の不調や現実面での不都合があるという事は、その原因になる何かが自分の中にあるという事を知らせてくれているお知らせみたいなもので決して悪いもの、取って捨てなければならないものというようなマイナスエネルギー的なものではないとわたしは思っている。
それがちょっとした事であるうちに処理をしないと、気付いてあげないとその症状や現象は、だんだん大きく鳴る目覚まし時計のようにどんどんときつくなっていくのだから、早めに気付いた方がいいのだと思っている。それが身体に出てくると、なにがしかの病気となって出てくるのだと思っている。
8月頃、友人と話していて、あるテーマが浮かんできた。
ある療法が非常に効果的に病気の痛みや症状を消し去る事が出来るという風にHPに書かれいて、友人はもしそれが本当だとしたら自分の内面に気付き成長しなければならないというお知らせを無視した事になり、どんどん気付きが先送りにされて次にお知らせが来る時は、大きな災難や病気になってしまうのではないかという事を、わたしに尋ねてきた。
ヒーリングに携わっていると常に考えてしまう問題なのだが、この考えはその療法なりヒーリングによって病気が必ず治るという事が前提になっている。わたしの見解としては、実際の所、治ってはいけないケースもあるような気がしていて、人が気付くために必要なものとして症状が出ているのだとしたら、それは治せないし、治らないのではないかという気がする。
ヒーリング中に瞑想のような状態に入ってその中である事に気付き、これが原因かな、と思って、それがどんぴしゃだったときには、その症状もなくなるという事がある。こんな時は、本当に治ってしまう。これは、わたしが被験者としても経験済みだ。でも、通常は人の気付くチャンスを奪えるほど、ヒーリングが何もかもを治してしまえたりはしないねん、と、その時も話した。その事があってから、しばらくの間、一応病気に限って言うなら、病気が治るとは、どういう事なのだろうか?と考えていた。
西洋医学では、曲がっているものはまっすぐにして、いらないものは切り取ったり、排除したり、殺したりして、そういうもののない状態を正常という風に考えて、そこに戻していく、ということを重視しているように思う。あらかじめ、かくあるべし、という型があって、その型にはめていく、という感じがする。でも、それは違うねんけどなぁ、って考えたりしてたときに気付いた。多くの人は、ヒーリングとは、お医者さんが治療の中でやる事やお薬を処方してやる事をエネルギーでやる事だと思っているのではないかと気付いた。

昔、パーフェクトハーモニーにいた頃に、ある人がちょっと偉い先生に質問した。「先生、足をねんざしたときは、どんなエネルギー使うとうまく治せるでしょうか?」「ねんざですか~?湿布貼っといたらいいですよ」と、その先生は答えた。その時は、その場が爆笑になったのだけど、わたしは今でもこの先生の回答を尊敬している。世間で治療と言われている事を医療や薬を使わずにやる事がヒーリングではないと、当たり前かも知れない事を最近はっきりと言葉に出来て意識しはじめた。

じゃあ、ヒーリングって何なのかなぁって、また考えた。

人によっていろんな考え方があるし、価値観もそれぞれだし、お勉強してきたメソッドもそれぞれだし、そこでの師匠の考え方もそれぞれだと思うので、ここで話すのは、あくまでもわたし流の話だということで。

とりあえずわかりやすいように病気の場合で話す事にする。

前述したように病気になる原因は自分の内面にある何かがそれを創り出しているということで、それが何かという事に気付くため、そしてそれを知って自分が成長するためのきっかけとして、それを教えるために病気になるのだと思っている。言い方を変えると、病気にならなければならない理由がそこにあるという事になる。根本に病気を創り出している原因がある限り、目先の症状を抑えたり外科的治療や薬物投与をしてもただその場が収まるだけで何度でも形を変えて病気がやってくる事になる。
ヒーリングというのはその原因にアプローチする事、といっても、わたしが他人の原因が何かとか、具体的にわかったりするわけではなく、本人がその事に目を向けたり気付いたりしていくためのサポート道案内をするだけでこのドアを開けたら楽になって次の世界に行けますよ、というドアの前までは案内して鍵を渡す事は出来るかも知れないが、それを開けるかどうかは本人の自由に委ねるということなのだと思う。病気の人が治るも、治らないも、その人が自由意志で選択できるのだと思う。治る時期はタイミングだし、その時が熟せば自ずと自分で気付き治っていくのだろうと思うが、それがいつかはわからないのだと思う。だけど、鍵さえ渡しておけば、その時はその鍵がどこの鍵かわからなかったとしてもいつか目の前のドアに気付いてその鍵を使ってくれるのかも知れないなと思う。わたしは治すという考え方になじめなくて、ヒーラーとは治してくれる人と思っている人がとても多いように思って、自分をヒーラーと言う事に少々抵抗があった。でも、このことをちょっと筋道たてて考える事が出来たときに、わたしは治さない事を目指そう、という風に思った。その人が治ってもらえるようにそのやり方は教える事が出来るかも知れないしどうしてそうなったのかを紐解いていくプロセスを一緒にやれるかも知れないがわたしが治すのではない、その人が治るだけなんだと思った。

話が長くなってしまったけど、実はまだ本題に入ってないのです。

今日はもう眠くなったので、続きはまた間もなく書きます。

Ameblo 2008-10-17 より


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seiko nakagawa
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