私はまだ愛読書に出会ってない
たとえば一冊の本を読む。内容に心を動かされ、その本を好きになる。
しかし、その本が愛読書になるかどうかはまた別の話である。
小説を読んで好きになったとする。多くの場合小説にはストーリーがあり、一度読んでしまえば話の流れが頭に入る。気に入ったからといって再読しても、内容をすべて知っているので、その小説を初見の気持ちで味わうことは不可能である。
エッセイの場合。著者が考えたこと、気付いたこと、身に起きたことが書かれているエッセイは、各章ごとに書かれていることが違うので、気に入った章を読み返す時がある。
テレビ番組の一場面や、漫才の件には、何度見ても面白い箇所がある。エッセイにも何度読んでも面白い一節が時々見つかる。しかし、読んでいるのはその面白い一節なのであって、本全体を繰り返し読んでいるわけではない。「愛読書」ではなく「愛読節」なのだ。
本における「面白い」は「笑える」という意味とも違う。著者が笑える方向に全力を注いだエッセイを何冊か所持しているが、一回読んで「面白かった」で満足すること山のごとしだ。笑えることと繰り返し読むことは、必ずしも繋がっているわけでは無いのだ。
そもそも愛読書とは何か。何度も何度も繰り返し読む本というイメージがあるが、果たしてそうだろうか。たとえ繰り返し読んでいても、目的次第ではそれは愛読書ではなくなるはずだ。建築の専門家が「愛読書は建築の本です」と申告した場合、何かが違うと誰もが思うだろう。
ここまで書いて、私はそもそも本を繰り返し読む習慣がないことに気が付く。一度読んだ本を再読する暇があれば、新しい未知なる本との遭遇を楽しみたい。そう思っている。
面白かった本、印象に残った本、衝撃を受けた本、人に薦めたい本はあっても、それが愛読書とは断言できない。何百冊も本を読んできたが「覚えるほど読んだ」という本はまだ家の本棚にはない。
ちなみに、小説を繰り返し読むことはめったに無いが、面白かった映画を再びレンタルしたことはある。