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「空気を吸って肌で感じて」自分の感覚を信じるということ / 甲斐農園 甲斐直樹
※本記事は、2021年11月8日にwebメディアYeastに投稿されたものです。現在と取材当時の状況は変わっている可能性がありますので、あらかじめご了承ください。
なお、店舗情報についてはnote掲載時点での情報になります。
日に日に寒さが厳しさを増し、どこからか冬の足音が聞こえてきます。
今回の舞台は安芸津町。海の見える心落ち着くまちです。
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この度取材をしたのは、この土地で農家を営む千葉県出身の甲斐直樹さん。
甲斐さんは10年前に安芸津に移住し、自然豊かなこの土地で、レモンやみかんなどの柑橘類、いちじく、びわや安芸津特産のじゃがいもなどを栽培されています。
始まりはアルバイト
― 甲斐さんが農業と出会ったきっかけは何だったんですか?
実は大学時代は機械工学を勉強していたんです。将来はロボットや機械の整備、エンジニアを目指していたんですが、あるときふと、本気で自分がやりたいことって何なのかなって思いはじめて。
そのまま大学を休学して、いろんなアルバイトをさせてもらう中で、友人の紹介で農業のアルバイトに出会ったのがきっかけですね。
― どんなアルバイトだったんですか?
野菜農場でのアルバイトでした。その時が初めての農業体験で。
作業の中で、実際にまいた種から芽が出る瞬間を目の前にしたんです。そのときすごい衝撃が走って。
自分で実際に手をかけてやってみたら、その分こたえてくれる作物の姿にすごい感激して、心打たれて、そこからもう農業のとりこになってしまったような感じですね。
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農業に心を奪われた甲斐さんは、全国各地を巡りながら自分の目で農業の世界を見て回ることに。
あるときは沖縄で雨に打たれながらサトウキビ狩りのアルバイトをしたこともあったそう。
そんな中、とある農家さんとの出会いが甲斐さんの考え方に大きな変化をもたらします。
ある土地で農家さんのお手伝いをしているときに、
「農業をやりたいって言うけど、お前いろんなところを転々としてて……。農業っていうのはな、その場所に人がいて、ずっとその場所で作るんだから、そこにいなきゃいけないんだ。」
と言われたことがあったんです。
農業やりたいやりたいって言いながらどこにも根を張らずに転々としている自分はたしかに矛盾してるなとそのとき初めて気づかされましたし、グサって刺さりました(笑)。
春夏秋冬いろんな土地をぐるぐる回ってたらそれは全然農業じゃないですしね。
その後は迷いながらも、自分が納得できる場所を求めて全国を巡り続けた甲斐さん。
そんな中、「瀬戸内広島」「赤土」「じゃがいも」というキーワードに惹かれ、10年前、安芸津に初めて足を踏み入れます。
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決断への思い
― 安芸津で農業をしようと決心したタイミングはいつだったのですか?
安芸津での3ケ月のアルバイトの終わりごろでした。
瀬戸内の温暖で穏やかな気候風土や、赤土で作られた安芸津のじゃがいもの美味しさだったり、地元のひととの交流だったり、いろんなものを通してここで暮らす人びとにすごい魅了されて。ここで生活したい、俺も農業頑張りたいって思いが自分の中でふつふつと強くなってきたんです。
今までとはちょっと違う感覚で、強い思いが芽生えたという感じでした。
― なるほど……。今までとは違う感覚というのは?
正直なところ、それまでいろんなところを転々として農業していたのは半分旅行みたいな、遊び半分みたいな感じだったんです。ちょっとこっちの農業かじって、次はまた別のところでちょっと農家さん手伝って、みたいな感じで。
安芸津に来るまでは軽い感じだったんですけど、安芸津に来て農業の勉強をさせてもらいながら生活しているうちに、何だかそういう「農業頑張りたい!」っていう強い気持ちが湧いてきたんですよ。
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他の土地にはない安芸津の魅力に心惹かれ、安芸津に根を下ろすことを決心した甲斐さん。しかし当時、広島には親戚も友人もいなかったそう。
― 農業に挑戦すること、縁もゆかりもない安芸津に移住することをぱっと決断するのは難しかったのではないかと思うのですが、そこに対する葛藤はなかったのですか?
葛藤は全くなかったですね。
― なんと……! 想像を超える答えでした。びっくりです。当時はどういう思いをもってらっしゃったのですか?
農業の世界に引き込まれた初めのころは、すごい楽しいなあって思うばかりで。仕事やビジネスっていうより、ただただ「好き」っていう気持ちが強かったですね。
今でも趣味も仕事も農業っていう感覚があります。
そんな中で安芸津に出会って、安芸津に染まって、安芸津に魅了されて、自分自身も安芸津の気候風土だったり、文化だったり、土地柄にすごい愛着が湧いてきて。
― そこはやはり周りのひとの存在が大きかったんですかね?
ほんとそうですね。地元の方の後押しもあってこの土地で農業しようと思ったので、この地域のひとたちのために頑張りたい、期待に応えたい!という思いが芽生えましたね。
自分の中で「農業をしたい」っていう強い思いが芽生えて、それを外に発信したときに、思いを地元の方が受け取ってくれて、「頑張れ!」っていうエールをくれて。そのときにもう自分の中でスイッチが入りましたね。応援してもらってるんだから、これはまじで頑張ろうって。本当にスイッチが入った瞬間でした。
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これまでを振り返って
― 安芸津に足を踏み入れて10年。心境の変化はありますか?
安芸津に来たときは一人で、正直なところ不安や心配はいっぱいありました。
技術はほとんどなかったですし、経験もなく、みかん1個できるかどうかも正直分からなかった。みかんの実が木になっていても、緑色の果実のまま落ちるんじゃないかって思うこともありました。
でも後ろ向いて不安になってても仕方ないし、何より自分が本当にやりたいって思うことでしたからね。周りのひとも応援してくれる中で、それに応えるためにとにかくがむしゃらに一生懸命頑張ろうという一心でここまでやってきました。
― お話聞いてて、改めて甲斐さんの思いの強さや行動力を感じます。10年たった今、様々な変化を踏まえて、今の自分をどう見てらっしゃいますか?
今思うと、10年の間に点々バラバラだったものが少しずつ、つながってきたような感じがしていて。少しずつ経験を積んで技術も覚えて、実績も出せるようになってきて、その積み重ねが自信にもつながってきました。その間に結婚もして、家族もできて。
だからやっぱり為せば成るんだなって思います。実際やってみないと分からないですしね。
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― たしかに「やってみて初めて分かること」ってたくさんある気がします。でも何かこう考えすぎてしまったり、一歩踏みだせなかったりすることってあるんじゃないかって思うんです。甲斐さんがそういう風にやりたいことを実際に行動に移すという選択をする中で、大切にしている考え方ってどんなものですか?
実際にその土地に行って、何か肌感覚でピンときたらそれが結構正解だと思います。観光雑誌を読んで入ってきた知識っていうよりも、自分で体感して、空気を吸って肌で感じて。頭で考えるっていうよりインスピレーションみたいな。
― 自分の直感を大切にしてみるということですか?
うん、ちょっと無責任な言い方になっちゃうんですけど、それを大事にしてほしいですね。周りがどう言おうと、自分の感覚を大事にして、一生懸命取り組んでいけば、必ず結果は出ると思います。
頭で考えてばかりだったらなかなかゴールは見えないですけど、実際にやっている最中にどんどん点と点が出てきて、それがどんどんつながっていくんで、本当に。
自分の直感や肌感覚を信じてみることって、簡単なようで本当に難しい。
自分に自信がない分、考えに考えを重ねすぎて、決断の際に躊躇してしまったり、どうしても世間一般的な正解を求めてしまって一歩踏み出せなかったりすることって結構あるんじゃないかなって思います。
でも自分を信じて行動してみたときに、初めて見えるものがたくさんあるということ。
成功するか失敗するか結果がわからない怖さはあるけど、挑戦したからこそ得られる経験や価値がたくさんあるということ。
甲斐さんが自身の人生を通して伝えて下さっているような、そんな気がします。
これからのこと
― 今後の目標や展望を教えてください。
実は今、安芸津地域全体の課題として農業従事者の高齢化が進み、農業をやる人が減ってきて、耕作放棄地が増えてしまっているという現状があります。
作り手の人が辞めちゃうと、畑の木はすぐ枯れて、荒地になってしまうんです。
それはすごい勿体ないし、そんな安芸津の姿を僕は見たくない。
僕自身はこれからもずっと農業を続けていきたいです。
恩返しの気持ちも込めて、安芸津で新しく農業に挑戦したいっていう人を少しでも後押ししていきたいですし、他所から安芸津に移住してきた人と地元の人とを結ぶ橋渡し役、パイプ役を担っていきたいです。
そして将来的には、安芸津全体をひとつの農場として管理できるような農業形態をつくっていけたらいいなと思っていますね。
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甲斐さんの視線の先には、安芸津全体の未来がありました。
「安芸津で農業をして生きていきたい」という甲斐さんの気持ちとともに、それを応援してくれるまち、ひとがここにあるということ。
そして「応援の声に応えたい」という甲斐さんのエネルギーが
今度は「安芸津のために」「安芸津をよいまちにしたい」という思いを生んでいる。
これこそ、自分を信じて決断してきた甲斐さんだからこそ生み出すことのできた循環なのではないかと思います。
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「自分の感覚を信じてみること」
その選択肢を常に忘れず持っておきたい。
そうすれば、きっとまだ見ぬ景色が見えてくるはず。
聞き手:りょん 写真:あゆ 編集:あんちゃん、あみぱん
ライターだより
終始優しく語り掛けるように話してくださる甲斐さんの姿が印象的でした。将来について考える最中での今回の取材。甲斐さんの一言一言が、自分の胸に響き渡るような感覚があったのを覚えています。10年後20年後、どのような未来が待っているのかは誰にもわかりませんが、自分の感覚を信じた先にある未来は明るいと願って、一つ一つ決断していきたいなと心から思います。
カメラマンだより
取材中に甲斐さんの畑やビニールハウスを見学させていただいたのですが、広い敷地内で甲斐さんが見当たらなくなった……!と思ったらレモンの花や金木犀などを摘んでほらほらと見せてくださる無邪気な甲斐さんが印象的でした。甲斐さんが大事にしている「感覚」ということですが、いろんな視点や価値観の中で自分の感覚を信じることはなんだか難しそうですが、私も自分自身の「感覚」を生き生きさせながら過ごしたいな、と感じました。